中国社会は進歩するどころか退歩しており、今が歴史的に最低である。
日本人が中国人と言論戦する場合、大前提として、その概略を知っていれば言論戦は随分と優位に進む。
以下、概説する。
●二千五百年前の春秋戦国時代、黄河・揚子江流域では大小さまざま多様な国が栄え、自由な気風のもとで無数の思想団体・学塾が生まれ、自由に討論し、現実社会への貢献を競っていたし、一般市民・農民でも貴族に国家の大計を言い、家臣が主君に反対することもできた。
●ところが、秦始皇帝の征服統一により、法家・道家の他はほぼ滅び言論、結社、移動の自由が大きく制限され、上意下達が決まりとなり、続く漢代で孔子の教えと関係ない歴史記述を経典とした「儒教」が国家支配の道具として創作された以降、自由の思想創出の気風は完全に衰退した。
●次の魏晋末の異民族の大侵入により漢民族はほぼ滅亡し貴族と富裕層は揚子江地域へ南遷した。一方、無教養で哲学をもたない北方民族の支配下の中国北部では、むしろ思想的に白紙状態の自由となり、西域文化、仏教等が広まり生き生きとした文化が隆盛した。
●鮮卑貴族が建国した唐では、南朝の漢民族の文化・哲学と北朝の北方民族の元気で大胆な文化が融合し開放的な社会が花開いた。外国人の官僚も多く、「長恨歌」など帝室を風刺した作品も創作できた。
●宋朝になり唐より漢回帰が深まり、陰湿な党争、朱子学などの偏狭な哲学が起こり、遼の北京地域占領、女真の侵入による漢民族の二度目の大南遷により、狂信的な「滅私奉公」「忠君愛国」思想による領土奪還運動も主張された。
●モンゴルの征服により、魏晋末と北宋末の二度の異民族征服後も生き残っていた殷周秦漢以来の漢民族の精神文化は完全に滅んだ。そのモンゴル征服時代は、現在の中国社会でも直視、客観視の出来ない「盲点」になっている。
藝術作品等のスタイルの完全な変化からも、民族性の大変換、滅亡が明確に分かる。
●明はモンゴル人を北に追い払い、漢民族文化・精神の復古・回帰を目標に国家を建設したが、言語・衣服・建築などは復古できたが、精神はついに最後まで回帰する事は出来なかった。
明ではモンゴル、女真の粗暴さと漢民族の欲の深さ、陰湿、閉鎖の悪い所のみが際立ってしまい、言論の自由の全くない独裁体制下の軍国主義国家で宦官の横暴、党争に明け暮れる社会が最後まで続いた。
文化面でも北宋のレベルへは最後まで遥かに及ばなかった。結局自ら満州人を引きいれ崩壊した。
●引き入れられるようにして清朝を建国した満州人は漢民族と違い、公平、勇敢、自由の気風を持っていたので少数で大勢の漢民族を支配することに成功し、更にモンゴル、ウイグル、チベットの信頼も得て版図に加えることができた。
初期はロシアを撃退したほど活力があり強かった清朝であったが、末期には漢民族化し、前の漢民族王朝と同じ陋習を繰り返し衰退した。
●孫文らは「漢民族復古」「近代化・民主化」の二つが基本的なスローガンにより清朝を倒し革命をし、民衆や知識人は希望をもって様々な活動を開始した。ところが、それらの試みは、時代を経るごとに、良い面が減り悪い面のみが増幅し残るようになり現在に至っている。
・いわゆる封建時代、言論は完全統制下にあり、歴史は勝者の創作、文学も権力の称賛、宗教・哲学も国定が原則であった。
しかし、封建地主→共産党幹部、儒教→共産主義、二十四史→社会主義史観に入れ変わっただけで言論・結社・信仰・政治思想の自由が得られたのではなく全く進歩していない。
それどころか、明らかに漢代、唐代、宋代に比べて、退歩している。
中国共産党は天安門事件以降、上海閥を中心として、「共産主義・社会主義」を彼等の独裁支配体制延命のために、以前の「儒教」と同じように利用することを決心し、漢民族本来の、底なしの物質的欲望、陰湿陰険、果てしない党争を完全に取り戻し、道徳なき利益集団となってしまった。
共産党中央幹部の蓄財は数兆円に及び、有名女優、テレビ女子アナウンサーは彼等とベッドを共にしなければならず、全国又は地方の警察、司法、企業、政府の全てが彼等の法によらない封建的支配の道具であり、思想監獄の存在など、過去の漢民族の悪習が集大成され民衆が奴隷状態にされている。
●従って今が中国の最低であり、精神的な改革がなされない限り、これからさらに最低が更新されていくのみなのは明確である。
以上。
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