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「無声の侵略」は進んでいる!

「無声の侵略」は進んでいる!
笑顔とお金と名誉授与を持っては彼等は来る。
私は、1990年代初に中国人民解放軍で武闘訓練を受けに渡中する沖縄主義の若者と上海行の船で会いショックを受けた。
4年後、南京の書籍卸売市場に、共産党出版の琉球(沖縄ではない)が古来中国の領土である理由を満載した大型カラー豪華本が、超安価で山のように積まれているを見て「琉球独立」「琉球半植民地化」へ中共が国民洗脳教育を開始したのを知った。
後に彼等は、北海道にチャンスがあることを知り、様々な工作をしてきた。
そして、今、彼等は北海道(敵=日本の後背地)を観光、土地買い占め、カジノ、独立運動という「無声の侵略」で事実上の支配ができると確信し、中共中央の政策責任層の代表である王岐山が自ら来日し、北海道で、現地を見て、要人に会い最終確認をした。
これで、中共中央は全体的統一意志を決定し「無声の侵略」は新段階へ突入する。
それにしても、王岐山が二階氏に会う時が最高の(本当の)笑顔を見せていることが気になる。
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第5回 興亜観音で本当の歴史を学ぶ会講演 「松井石根大将と興亜観音」

松井石根大将と興亜観音 
溝口墨道  於興亜観音 2019年10月20日
始めに
本日は、松井石根大将と興亜観音という題でお話させていただきます。始めに二点、申し上げさせていただきます。
●「ある人が、先の大戦への誤った理解を正し、松井大将の事跡を正当に評価することと、平和を追求する仏教の教義は、矛盾するから「興亜観音」の存在自体が矛盾し成立しない。」と主張したことがあるが、それは間違っているとはっきり申し上げさせていただきます。
その考えが、仏教を現在の所謂、実在する寺による日本的な「仏教」で理解して、本来の仏教を知らないことと、松井石根大将の本当の人生、思想、生き方を知らないことに基いているからです。
「仏教」も「松井石根大将の思想」もそのように浅薄なものでは決してありません。
●又、私は、何か一つの宗教、宗派の独善的な素晴らしさを述べようとするのではありません。私は伝統も新興も宗教の良否は、実践者の目的㊬、人柄によると考えています。

●人類は数百万年前に、アフリカで生まれ、急激に変化し、勿論それは百数十億年前の宇宙誕生から続く出来事の連続上にすぎませんが、アフリカを出た人類は不思議な事に2500年前位に一度、宗教的・哲学的な創造の高調期を迎えました。
ギリシア、インド、中国でほぼ同時に哲学・宗教が深化、発展しました。
※日本は一万年以上前から、それらとは別の価値観を持つ独自の文明、思想を築いていたことに注意しなければなりません。
●仏教は、「生老病死」の四苦から逃れるためには、「我」に拘ることから解放されることが必要であると繰り返し主張します。
その根拠は、興亜観音でよく読経される「妙法蓮華教如来寿量品第十六(如来の寿命の長さ)」に吾々と環境の本質は、「生まれず、死なず、変化せず、生ぜず、流転せず、完成せず、真実でもなければ、真実でないものでもなく、存在するものでもなければ存在しないものでもなく、このようなものでもなければ別のものでもなく、偽りでもなければ偽りでないものでもなく、別のものでもなければ、そのようなものでもない、」と説かれているのが、仏教の根本の考えなのです。
そこから全てが展開しています。
ですから、時間空間を超越し、従って生死も超越しているのです。
それを理解しなければ、松井石根大将の興亜観音建立の意義は分からないのです。

宗教はアヘンではない
マルクスは、25歳の時の論文「ヘーゲル法哲学批判・序説」で、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書きました。
マルクスの考えは間違っています。正しくは、必ず病気となり、老い、死ななければならない過酷な現実、普段の生活でも他者と自分の利外の矛盾の相克等々、に対処し生を永らえ生活するため。人間の精神には元々、アヘン的な作用、効能が内包されている。
 それが無いと、全ての人間は、直ちに自殺しなえればならなくなります。
人間は本能として、苦悩を忘れ何があっても自己肯定できる作用を持っています。
問題は、ある宗教や哲学・思想(共産主義等)が、その人間が本来持つ自己肯定の本能を、特定の方の伸ばそうとしたり、それを自己独善、偽善の精神獲得に安住することにあります。

法華経
『法華経』は大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教初期に成立した経典で、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。
白い蓮の花は、泥の中に生まれても、泥に染まらず、清浄な花を咲かせる。
名称:『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意の漢訳での総称であり、梵語(サンスクリット)の意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たって「白」が省略され、鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い。
漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。
概説
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている。現在、日本で広く用いられている天台大師の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の天台宗や法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。
また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。
迹門
前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。
さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。 また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。
本門
後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。すなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。その寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。
説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導く法として上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。
妙法蓮華経二十八品一覧
前半14品(迹門)
第1:序品、第2:方便品、第3:譬喩品、第4:信解品、第5:薬草喩品、第6:授記品、第7:化城喩品、第8:五百弟子受記品、第9:授学無学人記品、第10:法師品、第11:見宝塔品、第12:提婆達多品、第13:勧持品、第14:安楽行品
後半14品(本門)
第15:従地湧出品、第16:如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)、第17:分別功徳品、第18:随喜功徳品、第19:法師功徳品、第20:常不軽菩薩品、第21:如来神力品、第22:嘱累品、第23:薬王菩薩本事品、第24:妙音菩薩品、第25:観世音菩薩普門品(観音経)、第26:陀羅尼品、第27:妙荘厳王本事品、第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)
法華経では、釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則して、法華経の各品で教えを説いたものでを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)という。
三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)、長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)、三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)、化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)、衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)、髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)、良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)
『法華経』の成立時期
代表的な説では、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立したとする。第一類の韻文は紀元前1世紀ころに形成、紀元前後に文章化され、散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立したとした。
近年、「序品〜如来神力品が同時成立した」「27品同時成立説」が提出され、成立年代特定の問題は『振り出しにもどった』が現今の研究の状況だです。
中村元は、(法華経に含まれる)《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。また、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならないと述べた。
法華経の流布
日本に伝わる前、先ず、インドに於いて広範に流布していたためサンスクリット本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。チベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語(諺文)訳などがある。これらによって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読謡することを勧めている。中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。

日本での法華経の流布
『法華義疏』
『平家納経』観普賢経見返し 長寛2年(1164年)
日本では正倉院に法華経の断簡が存在する。606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)
615年には聖徳太子は法華経の注釈書『法華義疏』を著した (「三経義疏」参照)。
聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。
聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。
最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは
天台宗、日蓮宗系では『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする「法華三部経」としている。
日本では、護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。
特に、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として多くの宗派に普及している。
また日蓮宗では、方便品第二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一をまとめて日蓮宗三品経と呼ぶ。
皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。
鎌倉新仏教でも、法華経は重要な役割を果たし、良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。法然や親鸞は、比叡山で万人成仏を説く法華経を学んだのち、持戒や難行を必要としない称名念仏を万人成仏の具体的な手段として見出した。
曹洞宗の祖師である道元は、坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めた。臨終に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。
日蓮は「南無妙法蓮華経」を唱え、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来るという教えを説き、法華宗各派の祖となった。
それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行わたが、日蓮教学の法華宗は、南無妙法蓮華経と唱えることを正行とした所に特色がある。
近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉された。加藤清正は法華経を納経している。江戸期の大名も江戸城下に寄進し法華・日蓮宗系の菩提寺が多く建築され、紀伊徳川家や加藤清正らにより池上本門寺の寄進改築も進んだ。特に武家の妻女・子女らには変成男子せずとも女人成仏ができると説いた日蓮の教えに感化され勧んで信奉するものが多かった。
近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた。田中智学の国柱会に入会した宮沢賢治、高山樗牛、妹尾義郎、北一輝、石原莞爾、創価学会を結成した牧口常三郎、戸田城聖らがよく知られる。
日本の伝統教団では、法華経をはじめ般若経、大般涅槃経など後世の成立とされる大乗経典は釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承発展したものとして「釈迦の教義」として認め、中国・台湾、インド・ネパール、チベット・ブータン、モンゴル・ブリヤート・トゥバ・カルムイク等、他の大乗仏教圏諸国の間ではまったく釈尊の真説と認識され、文献学は信者ではないものによる誹謗とみなしほぼ黙殺し、問題に全くなっていない。
漢訳一覧
「法華部 (大正蔵)」、『妙法蓮華経』 八巻 鳩摩羅什訳 (大正蔵262)、『正法華経』 十巻 竺法護訳 (大正蔵263)、『添品妙法蓮華経』 七巻 闍那崛多・笈多訳 (大正蔵264)、『薩曇分陀利経』 一巻 訳者不明 (大正蔵265)、『仏説阿惟越致遮経』 三巻 竺法護訳 (大正蔵265)、『不退転法輪経』 四巻 訳者不明 (大正蔵267)、『仏説広博厳浄不退転輪経』 六巻 智厳訳 (大正蔵268)、『仏説法華三昧経』 一巻 智厳訳 (大正蔵269)、『大法鼓経』 二巻 求那跋陀羅訳 (大正蔵270)、『仏説菩薩行方便境界神通変化経』 三巻 求那跋陀羅訳 (大正蔵271)、『大薩遮尼乾子所説経』 十巻 菩提留支訳 (大正蔵272)、『金剛三昧経』 一巻 訳者不明 (大正蔵273)、『仏説済諸方等学経』 一巻 竺法護訳 (大正蔵274)、『大乗方広総持経』 一巻 毘尼多流支訳 (大正蔵275)、『無量義経』 一巻 曇摩伽陀耶舎訳 (大正蔵276)、『仏説観普賢菩薩行法経』 1巻 曇無蜜多訳 (大正蔵277)
法華経第二十四章 「あらゆる方角に顔を向けたほとけ」
妙法蓮華教観世音菩薩普門品第二十五
そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アクシャ・マティ(無尽意)は座席から立ち上がって、上衣を一方の肩だけにかけ、右膝をついて、世尊に向かって合掌し、世尊にこのように語った。
 「世尊よ、いかなる理由で偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラ(観世音)は、アヴァローキテーシュヴァラと呼ばれるのですか。」
 この言葉を聴いて、世尊は偉大な志を持つ菩提行者アクシャ・マティに次のように語った。「この世において、幾千万憶という人間がどのような苦悩を嘗めていようと、もしかれらが偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を聴くならば、かれらはすべてその苦悩の集積から解き放たれよう。
また、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を心にとどめている人々は、たとえ大火の中に落ち込んでも、かれらはすべて偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの威光によって、この大火から救い出されよう。
 また、人が河に流されることがあっても、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを大声で呼ぶならば、どこの河川においてでも、すぐ浅瀬が見つけられよう。
 また、幾千万億という人々が金銀や宝石・真珠・金剛石・瑠璃・硨磲(シャコ・シャコガイ)・瑪瑙・珊瑚・翡翠・琥珀・赤真珠などを船に積んで乗り込み、大海の只中を航行しているとき、季節風に吹き流されてラークシャシー(羅刹女)の島に漂着したとしても、かれらの中にただ一人でも偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを大声で呼ぶならば、かれらすべてはそのラークシャシーの島から逃れることができよう。
 実に、この理由で、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラはアヴァローキテーシュヴァラといわれるのだ。
 もし、ある人が処刑されようとしたときに、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを大声で呼ぶならば、そのとき、処刑人たちの刀は折れ砕けよう。
また、もしこの三千大千世界にヤクシャやラークシャサどもが充満することがあっても、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を聞けば、かれら凶悪な心の持主も、我々を悪意のまなざしで見ることはできないであろう。
 また、罪がある場合にせよ罪がない場合にせよ、もし誰かが木製あるいは鉄製の足枷とか係蹄(わな)とか鎖とかで繋がれることがあっても、かの偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を聞けば、直ちに足枷や係蹄(わな)や鎖などは解けてしまうであろう。
 偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの威光は、実にこのようなのだ。
 もし、良家の息子よ、この三千大千世界に悪漢とか敵とか盗賊とか武器を手にもつ輩が充ち溢れている場合、ひとりの隊商長が隊商の大部隊を引率して、評価できないほどに高価な貴重な宝物をもって旅行するとしよう。彼らが旅行している途中で、武器を携えた盗賊や悪漢や敵どもを見たとしよう。そして、盗賊などを見て恐れおののき、慌てふためいて、自分たちがどうしようもないことを知ったとしよう。そして、隊商長が隊商の各人に、
 『諸君、恐れることはない、恐れることはない。われわれに安心を授けられる偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを、われわれは声をそろえて一緒に呼ぼう。そうすれば、諸君はたちどころに盗賊や敵どもの恐怖から免れることができよう。』
と言うとしよう。
 そこで、隊商の全員が声を揃えて偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを呼んだとしよう。
『われらに安心を授けたまう偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを、崇め奉る、崇め奉る』と。
 名を唱えるやいなや、かの隊商はあらゆる恐怖から完全に解放されよう、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの威光は、実にこのようなのだ。 愛欲に耽る者たちでも、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬うとき、愛欲の心はなくなるのだ。
 憎悪に狂う者たちでも、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬うとき、憎悪の心は消えるのだ。
 愚かなふるまいをする輩でも、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬うとき、愚かさは見られないのだ。
 このように、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは偉大な神通力の持ち主なのだ。
 また、息子をほしがる女性が偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬うときは、容姿端麗で上品で優雅な息子が生まれるのだ。しかも、この息子は息子としての美点を具え、多くの人々に愛され、人の心を惹き、しかも善根を植えた息子なのだ。
 また、娘を望む女性には、容姿うるわしく上品で優雅な娘が生まれる。しかも、この娘は蓮華さながらの、この上なく清らかな容色をもち、娘としての美点を具え、多くの人々に愛され、人の心を惹き、しかも善根を植えた娘である。
 偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの威光は、実にこのようである。
 また、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬う人々、またその名を心にとどめる人々は、実りの多い果報を得るのだ。
 そして、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬い、その名を心にとどめる人も、また六十二のガンジス河の砂の数に等しい尊き仏たちを崇め敬い、その名を心にとどめようとする人も、またどれだけの尊き仏たちが住んでいられようとも、これらの仏たちに衣服とか鉢とか寝具とか座席とか医薬品などの生活必需品を供養しようとする人も、実りの多い果報を得よう。
 この場合、このように奇特な良家の子女は、そのことによって、どれほどの福徳を集積することができると思うか。」
 この言葉を聴いて、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティが世尊に、
 「世尊よ、実に多いのです。仏よ、実に多いのです。かの良家の子女は、そのことによって、実に多くの福徳を集積するでありましょう。」
 と言った。世尊が語った。
 「良家の息子よ、そのように多くの尊き仏たちを崇め敬うて得た福徳の蓄積と、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラにただ一度だけ崇め敬う行為をし、その名を心にとどめる場合に得られる福徳の蓄積とは、両者いずれも同じで増減なく、また優劣はないであろう。
 そして、六十二のガンジス河の砂の数に等しい尊き仏たちを崇め敬い、その名を心にとどめる人と、この両者を得た福徳の量は、幾千万億劫のあいだ努力しても、それを滅ぼし去ることは容易でない。
 このように、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を心にとどめることによって得られる福徳は、測り知られぬほどに多いのだ。」
 そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティは世尊にこのように語った。
 「世尊よ、何故に偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは、このサハー世界を歩きまわられるのですか。
 何故に人間どもに教えを説かれるのですか。
 また、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの巧妙な手段は、どれほどの範囲に及ぶのでしょうか。」
 この言葉を聴いて、世尊は偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティにこのように語った。
 「偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラが仏の姿で人々に教えを説く世界もあれば、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラが菩提行者の姿で人々に教えを説く世界もある。
 偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは、ある人々には独覚の姿で教えを説き、またある人々には声聞の姿で教えを説く。
 ある人々にはブラフマン(梵天)の姿で教えを説き、シャクラ(帝釈)の姿で教えを説くこともある。
 また、ある人にはガンダルヴァ(乾闥婆)の姿で教えを説き、ヤクシャ(夜叉)によって導きえられる者たちには、ヤクシャの姿で教えを説き、イーシュヴァラ(自在天)によって導きえられる者たちには、イーシュヴァラの姿で教えを説く。
 マヘ―シュヴァラ(大自在天)によって導きえられる者たちには、マヘーシュヴァラの姿で教えを説く。
 転輪聖王によって導きえられる者たちには、転輪聖王の姿で教えを説く。
ピシャーチャによって導きえられる者たちには、ピシャーチャの姿で教えを説く。
ヴァイシュラヴァナ(毘沙門)によって導きえられる者たちには、ヴァイシュラヴァナの姿で教えを説く。
将軍によって導きえられる者たちには、将軍の姿で教えを説く。
婆羅門によって導きえられる者たちには、婆羅門の姿で教えを説く。
ヴァジャラ・パーニ(執金剛神)によって導きえられる者たちには、ヴァジャラ・パーニの姿で教えを説く。
このように、良家の息子よ、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは考えられないほどの能力を具えているのだ。従って、今こそ、汝らは、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラに供養せよ。
 かの偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは恐れおののく者たちを安心させるのだ。 
 この理由で、彼はこのサハー世界においてアバヤン・ダダ(「安心を授ける者」の意)と言われる。」
 そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティが世尊にこのように言った。
 「世尊、われわれは偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラに心から帰依して、供養の贈り物を進上いたします。」
 世尊が言った。
 「良家の息子よ、今こそ好機であると、汝が考えるならば、そうするがよい。」
 そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティは幾百千金の値のある真珠の首飾りを自分の頸からはずして、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラに供養の進物として贈った。
 「勝れた偉丈夫よ、わたくしが親しく捧げ奉るこの供養の進物を受納されよ。」
 しかし、彼はそれを受納しなかった。
 そこで、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティが偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラにこのように語った。
 「良家の息子よ、われわれに憐れみを垂れたもうて、この真珠の頸飾りを受納したまえ。」
 そこで、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティに憐れみを垂れ、また四種の会衆ならびに天・竜・ヤクシャなどの八部衆や人間・鬼霊たちを憐れんで、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティから親しく真珠の頸飾りを受け取った。
 そして、それをふたつに分けて、その一つを尊きシャーキヤ・ムニに贈り、他の一つを完全な「さとり」に到達した阿羅漢の尊きプラプート・ラトナ(多宝)如来の宝玉造りの塔に懸けた。
このような奇蹟を示しながら、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは、このサハー世界を歩きまわった。」
 そのとき、世尊は次の詩頌を語った。
アクシャヤ・マティが余に『華麗な旗の持ち主よ、いかなる訳でこの仏の息子はアヴァローキテーシュヴァラと言われるのか』とその意義と理由を尋ねた。
その質問の訳を察知して、請願の大海であるアヴァローキテーシュヴァラについて、華麗な旗の持ち主である余は、アクシャヤ・マティに『アヴァローキテーシュヴァラの修行を聴け』と語った。
幾百劫という考えられぬほどに長い間、幾千万億という多くの仏のもとで、彼が請願を清浄ならしめた次第を、わがとき示すところから聴け。
その間、その名を聴き、彼に見え、さらに彼を念ずるとき、この世において、彼は人間たちのすべての苦悩と生活の煩わしさを消滅させて、失敗することはない。
悪意のある者が誰かを殺そうとして火坑に落とし込んだとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、水をかけられたように、火は消えよう。
海の難所や竜・マカラなどの怪物の住処に落ちこんだとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、海中に沈むことは決してない。
悪意を抱く者が誰かを殺そうとして、メール山の断崖から突き落としたとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、太陽となって虚空にとどまる。
殺そうとして、誰かが金剛づくりの山の大石を頭に投げつけたとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、一本の毛髪さえ害う(そこなう)ことはない。
剣を手にして危害を加えようとする敵の集団に取り囲まれたとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、即座にかれらは慈しみ深くなろう。
刑吏の手に委ねられて、まさに処刑されようとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、そのとき剣はばらばらに砕けよう。
木製あるいは鉄製の足枷によって、また縄で縛られることがあっても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、縄目は忽ちに解けよう。
呪文・まじない・薬草・人間に憑く鬼霊・死体に憑く鬼など、人間の身体を滅ぼすものは、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、それを用いた当人に還ってゆこう。
われらの体力をうばうヤクシャや竜やアスラ、人間に憑く鬼霊やラークシャサ(羅刹)どもに囲まれていようとも、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、一本の毛髪さえ害うことはない。
鋭い歯と爪をもつ恐ろしい猛獣に囲まれることがあっても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、それらは忽ちに諸方に逃げ去ろう。
吐く火焔の物凄く恐ろしく、まなざしに毒をもつ蛇どもに囲まれようと、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、そのとき、かれらは忽ちに無毒となる。
雲から稲妻きらめき雨を降らせながら、激しい雷雨が襲ってこようと、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、雷雨はその瞬間に忽ちに静まる。
幾百の苦悩に打ちひしがれ、多くの苦悩にさいなまれた人間を見て、勝れた智慧の力をもつ彼は察知して、神もともに住む世界において救済者となる。
神通力の蘊奥を極め、広大な智慧とその発揮の手段に長じた彼は、この世の十方の至る所に姿を現し、あらゆる国土において、のこらず、その姿が見られる。
難儀と困窮の恐怖につつまれて、地獄・畜生界・ヤマの世界にいる人間たちにとって、生誕・老衰・病気の苦しみは次第に消滅しよう。
そのとき、アクシャヤ・マティは喜び満足した心で次の詩頌を語った。
輝かしい眼の持主よ、慈眼の持主よ、理智と智慧の顕著な眼の持主よ。憐れみの眼をもち、清浄な眼の持主よ。美しい顔と美しい眼をもつ愛らしい者よ。
汚れなく濁りなき輝きある者よ。暗さのない智慧の持主よ、太陽の輝きをもつ者よ。吹き消されることのない燈火の輝きある者よ、汝は照り輝いて、この世を照らす。憐れみの徳をもち、慈しみを轟かせ、優れた徳と慈悲の心をもつ、大きな雲のごとき者よ。人間どもの煩悩の火を鎮め、汝は甘露である教えの雨を降らす。争いの際に、また論争・格闘の折に、戦場に赴いて大きな危険にさらされたとき、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、凶悪な敵軍は直ちに退散しよう。
雷鳴や太鼓のように轟き、大海のように轟きわたる彼は、ブラフマンのごとき好き音声をもつ。アヴァローキテーシュヴァラは音楽の奥義を極めており、常に心に念ずべき者である。清浄な存在であるアヴァローキテーシュヴァラを、汝は心に念ぜよ。心に念ぜよ。ゆめ疑うてはならぬ。死・不運・苦難に際して、彼は救済者であり庇護者であり、最後の拠りどころである。すべての徳を完成させ、すべての人間に慈悲の眼をもち、徳の化身であり徳の大海であるアヴァローキテーシュヴァラを礼拝せよ。
彼は世の人々に憐れみを垂れ、未来において仏となるであろう。あらゆる苦悩と恐怖と憂いを滅すアヴァローキテーシュヴァラを、私は礼拝する。
ローケーシュヴァラ・ラージャ(世自在王)を指導者とした僧のダルマ―カラ(法蔵)は、世間から供養されて、幾百劫という多年のあいだ修行して、汚れない最上の「さとり」に到達してアミターバ(無量光)如来となった。アヴァローキテーシュヴァラはアミターバ仏の右側あるいは左側に立ち、かの仏を扇ぎつつ、幻にひとしい一切の国土において、仏に香を供養した。
西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカーヴァティー(極楽)世界がある。そこに、いまアミターバ仏は人間の御者として住む。
そして、そこには女性は生まれることなく、性交の慣習は全くない。汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の胎内に座る。
かのアミターバ仏は、汚れなく心地よい蓮華の胎内にて、獅子座に腰をおろして、シャーラ王のように輝く。
彼はまたこの世の指導者として三界に匹敵する者はない。私はかの仏を讃嘆して、『速やかに福徳を積んで汝のように最も優れた人間(仏)となりたい』と祈念する。
 そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラについての経説の一章を聴き、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの奇蹟を教示する『サマンタ・ムカ』(あらゆる方角に顔を向けたほとけ)というアヴァローキテーシュヴァラの変幻自在な奇蹟を記した章を知る衆生は、少なからず善根を具えた者となるであろう。」 世尊がこの「サマンタ・ムカ」の章を説いている間に、そこに集まっていた八万四千人の会衆は、比べるもののない、この上なく完全な「さとり」に到達したいという心を起こした。
以上で、吉祥なる『法華経』という経説における、「あらゆる方角に顔を向けたほとけ」 というアヴァローキテーシュヴァラの奇蹟を説いた第二十四章は終わる。
法華宗陣門流
法華宗陣門流は、日蓮を宗祖(高祖)とし、日陣を派祖(門祖)とする、仏教の日蓮門下の一派である。本尊は三宝尊である。法華経の題目(南無妙法蓮華経)を唱えること(唱題)を正行とする。 日陣(1339年~1414年)陣門流では門祖と呼ぶ。この門流では、「南無日陣尊聖人(なむにちじんそんしょうにん)」と唱えることがある。日蓮(宗祖)から日朗(総本山越後国三条長久山本成寺初祖)、日印(同寺開山)、日静(上杉氏<藤原北家系>出身、後に除歴)の法脈である。
寺院総本山長久山本成寺(新潟県三条市)(越後国)、別院:京別院 光了山本禅寺(京都府京都市)(山城国)(洛中法華21ヶ寺)、東海別院 常霊山本興寺(静岡県湖西市)(遠江国)、東京別院 徳栄山本妙寺(東京都豊島区)(武蔵国)、北陸別院 長松山本法寺(富山県富山市)(越中国)
霊跡別院 俎岩山蓮着寺(静岡県伊東市)(伊豆国)
陣門流では、三宝の第一を、仏は久遠実成本仏釈迦牟尼世尊とし、法は正法ととらえている妙法蓮華経(法華経)とし、僧は日蓮大聖人(陣門流の使用する日蓮の呼び方)とする。教義は釈迦本仏論で勝劣派である。
日陣は本圀寺(京都市)日静を師として修学し、日静より遷化に先立ち越後国三条本成寺(新潟県三条市)を与えられ、日陣門流を興す。応永13年(1406年)、日陣は京での布教のため、本禅寺を創建する。
1253年(建長5年)に宗祖日蓮により立宗。
1297年(永仁5年)に日印は山吉定明・長久父子の協力を得て越後国三条長久山本成寺(初祖日朗<六老僧>の四長本山)(新潟県三条市)を建立する。
1318年(文保2年)~1319年(元応元年)に日印は高齢の日朗に代わり、征夷大将軍が宮将軍の守邦親王の世の鎌倉幕府の執権・得宗の北条高時の前で他の諸宗の僧を論破(いわゆる鎌倉殿中問答)(弟子の日静が書き留める。)し、日蓮門下の宗門の危機を救う。
1941年(昭和16年)に宗教団体法により、法華宗と本門法華宗と本妙法華宗が合同し、法華宗と公称する。
1951年(昭和26年)に法華宗から独立し、法華宗陣門流と公称する。
松井石根大将による興亜観音の建立
昭和15年2月 24日
★興亜観音の開眼供養法会は、昭和 15年 2月 24日 、願主松井石根大将、導師芝増上寺大島貫首をもつて挙行された。
「興亞觀音建立縁起」には次のように記されている。 支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。実に千歳の悲惨事なり。然りと雖、是所謂 東亜民族救済の聖戦たり。惟ふに比の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇、慈悲の行、真に興亜の礎たらんとする意に出でたるものなり。予大命を拝して江南の野に転 戦し、亡ふ所の生霊算なし。洵に痛惜の至りに堪へず。方に此等の霊を弔ふ為に、彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を獲り、施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、 此の功徳を以つて永く怨親平等に回向し、諸人と倶に彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る。 因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心な協力を感謝す。 紀元二千六百年二月 願主 陸軍大将 松井石根
2月 25日
★『朝日新聞』静岡版昭和 15年 2月 25日 「"冥福を祈つて"願主松井大将は語る」には、「興亜観音開眼式の二十四日朝、松井大将は牧少将を通じて観音建設の意向を次の如く語つた」として、
興亜の大光明を仰ぎ度い一心からこの大業のために尊い犠牲となつた皇軍将士とこれも 同じ大業のためたふれた支那の兵士の霊を併せて弔ひ度いのが自分の念願で皇軍将士は 靖国の神と祀られるのであるが皇道精神から見れば自分が観音像を建ててその冥福を祈 る気持もそれに合致してゐると信じてゐる、本籍迄熱海へ移した自分はここで幾多の英霊を慰めながら余生を送り度いと思ふ
昭和16年6月25日
★『読売新聞』昭和16年6月25日「汪氏へ興亜観音仏一けふ松井大将が沼津駅頭で一」という記事には、6月 25日 静岡県沼津駅で、松井が南京国民政府汪兆銘主席に約8寸の興亜観音像を贈ることが記されている。贈られる観音像は、熱海の興亜観音像を型取つた清風の製作によるものであった。贈ることになった理由について は、 松井石根大将は汪主席とは第二次支那革命以来すでに廿余年の知己で廿三日夜帝国ホテルで催された江氏歓迎晩餐会に出席した時興亜の大道を語り合つた際、談たまたま興亜観音に及び恩讐を超越して日華両勇士の霊を祈る大慈悲心に汪主席は感激、松井大将から贈ることになつたものであるとされている。
6月17日
★東亜新秩序建設のために6月17日上京した汪兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋右外相らと会談し、帰路特急つばめ号の停車した沼津駅で松井から興亜観音のミニチュアを贈られた。 これも清風作で、ミニチュア興亜観音は国内外に数点贈られたようである。
★興亜観音は熱海のものが著名であるが、それだけではなかった。新聞記事で興亜観音につい て報道されるや、怨親平等思想に共鳴した僧侶が自らの寺院にも興亜観音を建立したいとの希 望を松井に申し出、松井はそれに対して快諾して、他所においても興亜観音が建立されること になった。
「 第二号」の興亜観音は二重県尾鷲市の曹洞宗寺院金剛寺境内に建立された。金剛寺 21世 の鬼頭観梁和尚は、熱海に興亜観音が建立されたことを知り、尾鷲にも建てたいと松井大将に 懇願し、認められたのであった゛。『伊勢新聞』昭和16年8月11日「興亜観音像除幕式 尾 鷲町金剛寺境内で営む」には以 下のように記されている。北牟婁郡尾鷲町金剛寺住職鬼頭氏の発起で地元有志の浄財を得て同寺境内に建立を急ぎつゝあつた『興亜観音像』は今次聖戦に幾多武勲を樹て興亜の礎石として散つた護国の忠霊を永久に慰めるべく岡崎市の名工宇野員太郎氏に依頼中のところこんど見事に彫亥を終り安置したので九日の吉日を卜し午後一時から大本山永平寺貫首高階禅師、■■臨席、松井石根大将、小笠原長生子の祝辞代読、濱地文平代議士ほか町村長関係来賓百余名を招き荘厳な除幕の式を挙行、午後二時盛会裡に終了した。式後徳川中将の時局講演が行はれた
★柴山清風以外によつて製作された興亜観音は、金剛寺の興亜観音だけである。また石仏であることも他の興亜観音とは異なっている。胸の前で両手を合わせる姿や衣文等、熱海のものと同 一になるように製作されたようである。 台座銘には以下の 「 興亜観音建立縁起」が記されている。 支那事変戦没者追悼供養の為観音大士を建立す、願くはこの功徳を以て普く怨親平等に回向し、日華両民族倶に妙智力に依倍して速やかに東亜の大光明を仰かんことを祈る、 昭和十六年七月吉日 金剛廿一世 観梁曳 「辛巳端午 怨親平等 祐民誼」
ここでも戦争で亡くなった 日中両国の戦没者の供養として 「怨親平等」が強調され、観音菩薩の力によつて大東亜建設がなされるよう祈願している。「怨親平等」と揮豪した祐民誼は、民国29年(1940)3月、南京国民政府の行政院副院長兼外交部長となり、日本との外交折衝を主に担当し、同年12月駐日大使となつた人物である。年月からして、駐日大使として日本に赴任している際に依頼されて揮皐したと思われる。
★開眼供養の際には、松井はおそらくは体調 が芳しくなかったため参列せず祝辞を寄せている。当日は、昭和13年4月10日、決死的な爆撃行の中で弾丸数十発を浴び、左腕左脚 を負傷しながらも、操縦繰にハンカチを巻き、口でくわえて基地に帰還 し、15日に亡くなった尾鷲町出身の福山米助大尉の娘洋子ちやんが除幕を行つた。そして、北牟婁郡内戦没将兵遺族ら200余名が参列し、郡内32ヶ寺の僧侶奉仕のもと、永平寺貫首高階禅師の開眼供養があり、岡町長以下来賓の祝辞、武運長久祈願ののち、日支両軍戦歿将兵英霊の追悼が行われるなど、盛大な儀式であつた
9月 11日
★『朝日新聞』東京本社版昭和 16年 9月 11日には 「英霊に献ぐる秘願 畢生の写経千巻一興亜観音に香る一女性の心血一」の記事が掲載されている。これによると、東京に住 む女性が、亡き父の三界万霊の冥福を祈る写経を引き継ぎ、英霊の供養にと般若心経一千巻の 写経をして十巻に表装し、総持寺貫首伊藤道海禅師らの題字を添えて松井に贈り、松井の手で 納められたのであった。そして、「 興亜の英霊に捧げる心清い一婦人の"写 経秘話"が 御堂に 杖ひく人々の語り草となつてゐる」と記されている。 興亜観音の造立は、戦死者を悼む多くの人々の心を動かしていった。

★ついで富山県入善町の浄土真宗養照寺に興亜観音が建立された゛ 。熱海に興亜観音が建立されたことを知った養照寺住職藤裔常倫氏は、昭和15年3月13日に興亜観音を訪れ、その際、偶然に松井の姿を拝することができ感動したことを記している。そして翌年1月11日再び参拝し、同時に松井に対して、興亜観音の分身を日本海に臨んで養照寺内に建立したい旨申し出ると、松井はll■ 諾して製作者である柴山清風を紹介された。そして松井は像下の題字となる「興亜観音」をすぐに揮豪して養照寺に送った。興亜観音建立委員長は町長の米澤元貞氏が務めて式典の準備が行われた。清風は松井からのヽ 紹介により観音像の製作に取りかかり、昭和17年1月10日、養照寺に像が到着し、昭和17年5月3日、開眼供養が行われた。
観音像の右には祐民誼によつて「怨親平等」と揮豪された石碑が建てられ、開眼供養法要には祝辞を寄せた。そしてその碑には、菊池寛が選した選した碑文が刻まれた。その文面は以下 のとおりである。
それ観世音は、衆生に無畏を施すゆゑに施無畏者の名あり、大慈大悲の心篤きを以て大悲 聖者の名あり、世界を救済するの故に救世大士とも称せられたまふ。思ふに興亜の義戦は 万邦に無畏を施すにあり。興亜の心は万民に慈悲を加ふるにあり。興亜の道は虐げられた る民族を救済するにあり。しかも観音菩薩の救済は無限にして、普く一人も漏れることな しと聴く。まことや大東亜聖戦の意義は観世音の心願を東亜に実現するにある。今養照寺 の寺域に立ちたまふ聖姿を拝する人は、何人も興亜の戦に散り行きじ人々に対し、敵味方 無差別の菩提を弔ふと共に、戦争の悲願に、恩讐一如万民共栄、施無畏の理想世界の一日 も早く建立せられんことを念願すべきであらう。 昭和十七年二月二十六日 菊池寛
★興亜観音に対して、敵味方の差別なく菩提を弔うのと同時に、観音菩薩の力によつて東亜の民 族の共栄が実現されることを祈願している。また、門前の標石には牧次郎少将の筆による 「 興 亜観音」の文字が亥Jまれた0。 牧次郎は杭州湾上陸の際の勇将と讃えられ、帰還後は知恩院 で得度し繹相園と名乗つたが、法衣姿で戦場を弔い、激戦地の霊土霊骨を将来して増上寺に安 置していたが、その一部を観音像の台座内に安置したのであった。そして、東本願寺句佛上人 の 「 栄誉無上護国の魂に風薫る」の句碑も建てられた。 開眼供養が行われた昭和 17年 5月 3日 には、松井は病気のため参加できず祝辞を寄せたが、 大谷派宗務総長信正院螢潤連枝導師のもと開眼供養法会が行われ、僧侶二十数名による勤行以 下、盛大な式となった。

●松井大将は法華宗陣門流の信者となっていたが、新潟県三条市にある法華宗総本山本成寺に赴かれ、相談した結果、 本成寺の執事を務め、何れ伊豆高原に所在する別格本山蓮着寺住職に赴任する予定であった伊丹忍尊師に「観音の周囲に様々な英霊が立ち現れる。成仏していないのではないか」と訴え、観音を受持してほしいと請願した。伊丹尊師は承諾し、韓音堂の傍に住し毎日朝晩題目を唱えると、戦没者の霊は出なくなり、現在に至っている。

★ついで奈良県桜井市蓮台寺に興亜観音が建立された②。蓮台寺 21世性誉寛樹和尚が、熱海 に興亜観音が建立されたことを知り、自らが提唱していた興亜合掌会の求めるものは興亜観音 像の建立から始まると思い立ったことによるものである。性誉寛樹は知人織田陳蔵氏が柴山清 風と旧知の由を知り、同じ仏像製作を依頼したところ、大将の命あるならば製作するとのこと だったので、松井と親交の厚い大島徹水増上寺法主狽下を介して、昭和 16年 1月 5日熱海の 松井邸を訪ね、興亜会の主旨を述べ、同じ土をにより製作した観音像を蓮台寺境内に建立した いと懇願した。松井はこれに同意して自ら発願主となり、柴山清風に高さ 2。42傷 の興亜観音 像製作を依頼したのであつた。
そして、昭和 16年 11月 3日 、 大島大僧正を導師に迎えて地鎮祭が 行われた。その地下には県下の小学 校児童による名号石、奈良安井崇徳 寺住職の発起の写経石が納められ、 基礎石には天平年間吉備真備によつ て建立されたとされる心楽寺の礎石 を四切にして使用された。また、観 音像め横には 「 興亜観音 発 願 陸 軍大将松井石根」と刻んだ標石も建 てられた。翌 17年 9月 に工事を終 え、昭和 18年 3月 27日 松井夫妻 を迎え、大島大僧正を導師として開 眼大法要が行われた。その発願文は 以下のとお りである6 支那事変は友隣本目撃ちて莫大の 生命を喪滅す。実に千載の悲惨 事なり、然 りと雖も是れ所謂東 亜民族救済の聖戦にして、其犠 牲たるや身を殺 して大慈を布 く 無畏の勇慈悲の行以て興亜の礎 たらむとするの意に因るものなり。予暴に大命を拝して江南の地に展戦し喪ふ所の英霊算 なし。拘に痛恨の情に堪えす、姦に此等英霊を弔う為彼我の戦場たりし江南地方各地の土 塊を採り来りて施無畏者慈眼視衆生の観世音菩薩の像を建立し、此功徳を以て永くゝゝ怨 親平等に回向し、諸人と共に彼の観音力を念し東亜の大光明を仰かむことを祈る。今や大 東亜の戦跡は遠く南洋の彼方に及び戦争の範囲も亦支那事変の比にあらす。糞くは亜細亜 古来の観音精神を治く大東亜の諸民族に悟了せしめて大東亜聖戦の完遂に貢献せむことを 以て発願の辞となす。 昭和十八年二月二十七日 陸軍大将 松 井石根 (花押) 当日は浄土宗総本山知恩院式衆をはじめ県下各寺院の僧侶、京都師団長代理相葉大佐、中華民 国大使代理侃学林氏、奈良県知事代理坂田聖地顕揚課技師、大福 ・香具山国民学校児童、戦病 歿軍人遺家族らが参列する盛大な法会となつた。

★興亜観音として露座に建立されたのは、熱海、尾鷲、入善、桜井の4体 であつた。興亜観音 は熱海に建立された後、それを報道で知つた人々が、「怨親平等」の思想に心を動かされ、分 身を地元にもとの思いで松井大将に懇願し、仏教界、政界、軍、地域が一体となって運動した結果であつた。そこには亡くなつた人の菩提を弔うのと同時に、「興亜」を観音に祈願し、戦争を勝利に導いてもらいたいとの意志もあつた。

大高未貴さん、河添恵子さん、鳴霞さんの三名が12月13日、文京区民センターで講演

南京真実第12回追求101

大高未貴さん、河添恵子さん、鳴霞さんの三名が12月13日、文京区民センターで講演されます。
私が代表の会も協賛しています。気鋭の女性三名の南京問題についての話に興味あるかたは、是非ご参加下さい。

あえば直道、深田匠講演会

10月27日佐倉講演チラシ案 表
10月27日佐倉講演チラシ案 うら
今月の27日(日)、千葉県佐倉市のミレニアムセンター佐倉(京成本線性京成佐倉駅前)で、講演会が開催されます。
 今回は、アメリカ、オーストラリア、台湾、インド、韓国の草の根保守派と連帯するJCUの千葉県ネットワークのキックオフイベントです。
 これから、始まる国際連帯です。ふるってご参加くださいますようお願い申し上げます。
第1部は深田匠先生が現代アメリカ政治を理解する入門的講義
 「アメリカ政治入門」をテーマに講演されます。
第2部は日米の架け橋となりご活躍されている一般社団法人JCUあえば直道議長が「激動の中に日本の未来を拓く」と題して、今後の日本のあり方について講演されます。
 ネットワークを広げる交流の時間とさせていただき、今後JCUの活動をともに推し進める絆を深めたいと思います。
 あえば直道議長プロフィール
 慶應義塾大学法学部を卒業。
 2012年、全米共和党のアジア担当顧問に就任。
 2015年、全米共和党の最大支持母体であるACUの日本側パートナーとして、一般社団法人JCUを設立し、議長に就任。
 2018年、アメリカ最大の政治イベントCPACメインステージにおいて、中国の覇権主義に対抗するために、アジア・パシフィック・コンサバティブ・ユニオン(APCU)を設立し、議長に就任。自由と繁栄を実現のために日夜奔走されておられます。
 主な著書としては、
 2016年発刊の著書『トランプ革命』で、トランプ大統領の当選をいち早く指摘し、多数テレビ・メディアに出演をされています。
 そして、監修として昨年2018年発刊しました「トランプのアメリカ-その『偉大なる復活』の真相-」は共和党の重鎮ニュート・ギングリッジ氏がトランプ政権の実績を忠実に記載した書籍としてニューヨーク・タイムズのベストセラーで一位を獲得したものです。日本でもアマゾンベストセラー1
位を獲得し、好評のため重版が決定するなど話題となっております。
深田匠先生プロフィール
1966年生まれ。同志社大学法学部政治学科出身。
東京裁判において日本の無罪を主張したパール判事の盟友、田中正明氏の門下生代表として保守思想や近現代史の研究も続けてこられました。
現在、一般社団法人JCU 国際戦略研究部長、 (株)大国戦略研究所 代表取締役所長を務められておられます。

戦前戦中の日本人は杉原千畝だけでなく、満洲、日本本土、ベルリン、モスクワ、ウラジオストク、上海、フランスでも日本人のいる処ではどこでも、ユダヤ難民を救済しました

杉原千畝だけでなく日本人総体がユダヤ人難民を助けていた
戦前戦中のユダヤ人迫害が最も厳しかった時期、日本人はリトアニアの杉原千畝だけでなく、満洲、日本本土、ベルリン、モスクワ、ウラジオストク、上海、フランスでも、結局日本人のいる処ではどこでも、大なり小なりユダヤ難民は救済されていたのです。また、松井大将が組織した大亜細亜協会関係者もそれに多く関係していたこともあきらかになりました。

日本人によるユダヤ人救済の代表的なものだけを時間系列的に列挙します。(表を参照してください)
大勢の大亜細亜主義者と杉原千畝他の日本人 猶太救済表の2

●昭和2年1927年 ハルビン・ユダヤ教団会長のアブラハム・カウフマンはソ連極東ビロビジャンへのユダヤ人移住計画を否定
●昭和3年1928年 ハルビンユダヤ人社会はソ連や東欧の同胞を救援
・樋口季一郎がグルジアでユダヤ人の老人から日本の天皇こそがユダヤ人を救う救世主に違いないと訴えられ祈りを捧げられた。
●昭和6年1931年 ハルピン全ロシア・ファシス ト党第一回大会、ユダヤ人迫害
●昭和7年1932年 満洲国建国
●昭和8年1933年 カスぺ事件、全ロシア・ファシス ト党日本支部・東京他
●昭和9年1934年 日産の鮎川が論文「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」発表
●昭和10年1935年 安江仙弘陸軍大佐が、ルピンでカウフマンと日本ユダヤ親善団体「世界民族文化協会」を創立。在満ユダヤ人の保護に尽力。
●昭和11年1936年 日独防共協定締結
●昭和12年1937年 大亜細亜協会役員のハルピン特務機関長樋口季一郎少将が、第1回極東ユダヤ人大会で「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、ドイツのユダヤ政策を間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。
樋口季一郎

●昭和13年1938年 オトポール事件で樋口季一郎少将がユダヤ人難民の入国許可。「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と樋口季一郎少将が訴えると東条英機関東軍参謀長が支持。ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。樋口ルートと呼ばれ、数千人から二万人の各説があるがいずれにしても大勢のユダヤ難民を満州国経由で救済した。
東郷茂徳駐独大使が、日独同盟反対、ナチスのユダヤ人排斥を嫌悪しリッペントロップ、大島武官と対立、駐独大使解罷免。ソ連大使へ転任。東郷大使の妻はユダヤ系ドイツ人。
安江大連特務機関長が中心となり、関東軍が「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」策定
・大亜細亜協会有力会員の犬塚惟重海軍大佐が極東猶太人民会代表会議第一回会議に参加。フグ計画(ユダヤ人大量移住受け入れ計画)を発表
犬塚惟重
・日本政府の5相会議で陸軍大臣板垣征四郎が『日本は八紘一宇の精神である』とユダヤ人排斥に反対と発言
●昭和14年1939年 駐ベルリン満州国公使館書記官王替夫、ユダヤ難民らにビザ発給開始12000(?)通以上。
・引き続き大勢のユダヤ人難民を満州国通過させた。
犬塚惟重、安江仙弘、外務省の石黒四郎の3名が「日本は上海郊外にユダヤ人自治区を設立すべしと共同提案
・犬塚惟重の「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」を日本政府が承認
・この頃、駐ソ連大使の東郷茂徳は妻がユダヤ系ドイツ人でもあり、反ナチスであったので、モスクワ大使館に来たユダヤ難民を助けるためビザを発給していたと考えられる。
●昭和15年1940年6月イタリア参戦地中海航路閉鎖により、ドイツ圏ユダヤ人はウラジオストク、満洲里へ行く外なくなる。
・樋口ルートで満洲入国3000人以上。
・犬塚惟重がナチス・ドイツの対ユダヤ人政策批判、「ユダヤ問題と日本」を発表。
リトアニア・カウナスの領事代理杉原千畝が7月~8月末、亡命ユダヤ人らへ日本通過ビザを2000通以上発給
杉原千畝

・7月敦賀港にドイツのユダヤ難民上陸開始。10月から杉原ビザのポーランド系難民入国開始
・リトアニアのカウナスの領事館が閉鎖された後はモスクワで日本通過ビザが発給されるとの手紙が難民に届いた。(東郷駐ソ大使によると思われる)。
根井三郎ウラジオ総領事代理が杉原ビザのユダヤ難民を敦賀行の船に乗せた。
根井三郎

・日本の旅行会社や敦賀港、神戸、横浜など何処の日本の一般国民がユダヤ難民を憐れみ親切に接待した。
松岡洋右がユダヤ難民の為に奔走する小辻節三に日本での滞在許可期間を延長する秘策を伝授。
松岡洋右

・10月大亜細亜主義者の建川美次中将が松岡外相の要請で駐ソ大使赴任。モスクワ大使館でも不完全な書類に日本通過ビザが発給された(ムナハミ・サビドールイスラエル国会議長経験談)。

●昭和16年1941年 
建川美次駐ソ大使が4月2日付に電信「彼ラ住ム家ナク歸ルニ所ナク進退キワマリ」と対ユダヤ難民のビザ発給緩和要請を打電。引き続きユダヤ難民に日本通過ビザを発給したと推測される。
・東条英機首相はの要請で外相就任、アメリカとの和平交渉の為、枢軸派の大使1名に辞表提出を求め課長きゅに名を停職にした。
・ユダヤ難民は敦賀港だけなく下関、神戸から入国した。
・満州国が二週間の通過ビザを発給。
・5月海軍省がナチス・ドイツの圧力で尋問のため神戸猶太協会のラビ2人を東京へ召喚したが、松岡外相は「我が国に住むかぎり、一切の心配は無用」と身柄の安全を保証した。
ハインツ・E・マウル「当時2600人を数えた在日ドイツ人の中にはユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払い、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいた。日本政府はドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これら116人のユダヤ人をドイツ人同様に遇した。 1941年末、ドイツ大使館は日本政府に全てのユダヤ人は無国籍でいかなる保護も与えられないと通告したが、日本の外務省はドイツ大使館による在日ユダヤ人解職要求を無視しユダヤ人は戦争終了まで日本で安全に暮らした。
ヒルダ・ラバウ ヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」。
ヒレル・レビン教授「いくら日本政府に何らかの損得勘定があったにせよ、日本側の対応は当時のアメリカ政府の非協力的な対応に比べれば文字通り、天と地ほどの差がある。もしアメリカ政府がもっと積極的にユダヤ人救済に手を差し伸べていたら、さらに何百万という命が助かっていたはずだからだ。 だがアメリカは、杉原がユダヤ人に対するビザの大量発給に注いだのと同じくらいの努力を、ビザを発給しない方向に使ったのだ。]
近衞秀麿(近衞文麿の異母弟)はベルリン・フィルを指揮し大音楽家(マエストロ)、音楽大使としてドイツを拠点に活動したが、ヒトラーを嫌い、ユダヤ人を匿った。近衛秀麿自伝「救われたユダヤ人家族は10以上」、「日本大使館のY君が担当した」。ドイツでの活動を禁止された近衛はフランスで自前のオーケストラを組織し、ナチス・ドイツのプロパガンダ演奏会を利用しユダヤ人音楽家を強制労働から救った。天皇の御稜威に従い、総計約50人のユダヤ人を国外へ脱出させて助けた。

ベルリン日本大使館は、終戦後まで、ゲシュタポに隠れてユダヤ系ドイツ人女性2名を匿い、陸海軍の駐在武官も、ドイツ語を習う目的で敢えてユダヤ系ドイツ人を事務所に雇っていた。強制収容所送りを免れていた混血ユダヤ人達は、日本人に雇って貰えれば助かる事を知って、ホロコーストされるユダヤ系ドイツ人をゲシュタポの厳しい監視を避けて日本大使館に連れてきた。
●1944年暮れ ドイツ留学中の古賀守は、日本大使館から幌付きトラックを借り「日の丸」の旗つけ外交用車輌とし、ユダヤ人十数人をドイツ国内からスイスへと脱出させ、バーゼルのユダヤ救済協会に全員を無事に引き渡した。
●その他にもベルリンで藤村義朗、毛利誠子などがユダヤ人を救済した。

【小結】
以上のように、同盟国ドイツの首都でもモスクワでも、満洲でもリトアニアでもフランスでも日本本土でも、上海でも何処でも日本人はユダヤ人を助けていた。しかも同盟国ドイツからの強い圧力や要請に逆らってである。
数年間にわたり欧州にいるユダヤ人難民一万人以上(総計)を地理的に遠い満洲や日本を経由させ、上海や西側諸国に逃亡させるというのは一人二人の善意や勇気では絶対に不可能である。
 確かに、その時々、場所々でキーとなるポジションにいる人物が外交官、軍人、民間人が勇気を持って行動したのだが、それだけでなく日本人全体がユダヤ人に悪感情を持っておらず、寧ろ助けたいと思っていたと考えるしかない。
一見、ユダヤ人排斥を志向したかに見える軍人や外交官も、やはり実際には、ユダヤ人救済に気が付かないふりをしたり、更には救済しようとする者に知恵を与えたりしていたのが殆どである。
 言い換えれば、日本政府はユダヤ人救済を命じなかったが、軍人、外交官、一般国民はナチス・ドイツに逆らい自主的にユダヤ人難民を助けていたということである。
 そして、そのほとんどは、それらを円滑に進めるため公にせず、勿論自慢もせず、無記名の指導層と、無名の庶民の合作でなされたのである。
 それが実体であった。

【事後談】
・アメリカ軍は、ユダヤ人難民を無償で受け容れた神戸や敦賀を無差別爆撃し、ユダヤ人難民を新天地に旅立つまで暖かく保護した神戸や敦賀の市民は、生きたまま焼き殺された。
・日本の犯罪をドイツと同じように裁きたい連合国だから、東京裁判では上記の事実は意図的に完全に無視された。
・日本人の真心のユダヤ難民救済に心を寄せ、終戦まで数年間日本人と共に活動したハルビン・ユダヤ教団会長、ユダヤ民族基金、世界シオニスト機構などのユダヤ機関の極東代表であったアブラハム・カウフマンのアメリカのユダヤ組織へ発した救援要請の殆どは拒否され、戦後も日本人が戦中如何に、ユダヤ人を助けたかに就て、口をつむがざるを得なかった。
・日本の軍部は消滅してしまったからしょうがないが、外務省が何故、自省の先輩の人権保護の聖業を世界に発信しないのかは、真に奇怪な事である。

本日の放射線空間線量。ソウルは0,134、東京は0,036。日本大使館発表

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在韓日本大使館のサイトに毎日掲載(河野前外相グッジョブ!)されている日本とソウルの放射線空間線量です。
あれれ、ソウルの方が福島市より放射線量が多い!
ソウルの観測点を見たら0,162の所もある。東京(0,036)の何倍だよ!

能の「鉢の木」こそが藝術 心の無い製作行為は藝術ではない!

能の「鉢の木」こそが藝術。
 能 鉢の木2
能 鉢の木1
「鉢の木」は人の心の原点を映す話で、同時代の世界で傑出し日本の誇る偉大な芸術家である観阿弥・世阿弥の作ともされています。
藝術の表現方法は、絶対に自由で多様であるべきですが、創作の動機、目的には善の「心」が「絶対」に必要で、それが「藝術の創作」と「単なる製作行為」を分けるのです。
今の日本には虚栄心と差別意識、無知の白人崇拝にまみれ、無慈悲で卑怯な自分を偽善の衣で隠すエセ芸術家が多すぎます。

以下、大要です。

ある大雪の夕暮れ、佐野(北関東)の外れのあばら家に、旅の僧が一夜の宿を求めましたが、住人の貧乏武士は、ボロ屋で食べ物もないと断りました。しかし、妻に思いやりの無さをなじられてハッと我に返り、雪道の中、僧を追いかけ家に招き入れました。
そして、なけなしの粟(アワ)飯を出し、自分は佐野源左衛門常世といい、以前は多くの所領があったが一族に横領され、落ちぶれたと語りました。
薪がなくなると、客人の暖のため悩み、落ちぶれても最後まで残し大事にしてきた松、梅・桜のみごとな盆栽がある事に気づき取り出すと、とても惜しみながらも、自慢の品だが、今となっては無用といいい、折って薪にしてしまいました。
そして、今は何もないが、ぼろでも鎧と錆びたなぎなた、やせた馬だけはあり、一旦鎌倉から召集されれば、いち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦う決意を僧に語りました。
年があけ春になり、突然鎌倉から緊急召集の触れが出た。佐野源左衛門も古鎧を身につけ、錆び薙刀を背負い、痩せ馬に乗って、やっとの思いで鎌倉に駆け付けました。
北条時頼は諸将の前で、ぼろ鎧を付け,錆薙刀を持ち、やせ馬に乗った武士がいるはずだとして探すよう命じました。
佐野源左衛門常世は何か自分に落ち度あり罰を受けるに違いないと恐れながら、御前の諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏しました。
すると北条時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土)を新たに恩賞として与えました。佐野源左衛門常世は感謝して引きさがり、はればれと佐野荘へと帰っていきました。

以上です。

「自分の利を捨て人を助ける憐みの真心」「主君(仕事)に尽くす心」「人と人が信じ合う無垢の心」という日本人の良さがこの話には詰まっているのです。
「心」が無くて何の「藝」ですか!何の「藝術」ですか!
素晴らしい心とそれを表現する素晴らしい技術が、妙合して初めて「藝術」なのです。
プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

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