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田中英道先生とお会いした! 人生の快事!

本日、私の尊敬する田中英道先生と初めてお会いしお話をすることができた!
正しく私の人生における一大快事です!
しかも私の専門の中国美学美術史にかかわる山水画の三遠法の日本受容関連や
北斎の西洋遠近法受容についての玉論も承ることができました。
更に関東の縄文国家まで、話は流れるように弾んであっという間に時は過ぎました。
感激です!
ご縁を頂いた松原章さんに本当に感謝です。


田中英道先生HP
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日本人のルーツ探しにはY染色体ハプログループが有効 最終

男性と女性の共同体における役割の差
古代における男性と女性の役割の差を大まかに言うと以下のとおりである
●男性は共同体を離れた場所で狩り等の食物確保の活動をする。
●男性は自己の属する共同体の外で他の共同体の関係で戦いや和平、物々交換等の活動をする。
●男性は共同体を離れ、他の共同体に戦いを挑み、そこの男性を殺害又は追放し乗っ取り共同体の主人になる。
●男性は共同体を離れ、他の共同体の女性を拉致し、あらたに自己の共同体を造る。

●女性は共同体の中で子を産み育てる。
●女性は共同体の中で共同体の維持管理食糧確保の活動をする。

以上の事から、Y染色体とmtDNAを調べることは、意味に大きな違いがあるのは明確で、男系Y染色体系統の解析では、闘争に勝利、或いは争いを避けて移住、などの方法で種族の保存に成功した「勝者の歴史」が自然に明らかにされていることになる。
 一方、母系mtDNA系統の解析では、それだけでは新人が生活や移動をしたという情報しか得られないが、Y染色体系統の解析と合わせると移動の経路だけでなく「経緯」をもうかがい知ることができることになる。
 男系と女系が共に移動したのであれば気候や食料などの問題で比較的平和的に移動したことが予想され、男系と女系が別々に移動、または一方が消滅したのであれば戦争や事故等が原因で移動したことが予想されるのである。

従って、mtDNAのハプログループの移動を見るのは、あくまでも女性の移動を見ているのであって男性を含めた家族とか部族の移動を見ているのではない。※もちろん男性も一緒に移動している場合もあるが女性のみの移動もあるから、彼(彼等)の移動経路ではなく、彼女(彼女等)の移動経路と言わなければならない。

 以上、人類の遷移等の研究のために行うY染色体とmtDNAの系統分析ではY染色体が主でmtDNAを旁ととらえるのが正しい事となる。

日本人のルーツ探しにはY染色体ハプログループが有効 その二

男性(Y染色体)と女性(mtDNA)ではその移住の経緯の異同

mtDNAとY染色体が移動する状況を遺伝子の動きで見ると、以下のようになるであろう。
いずれにしても、子孫増殖のための移動では男性と女性ではその役割分担しており男性は能動で女性は受動が基調である。
Y染色体 (男性)が移動する場合
●自然移住。同じ家族(部族)と共に移住する。
●追放移住。共同体の男性と争い敗北し追放され単独(又は複数の男性のみ)で移住
●自主移住。(食料や生殖を外に求めて)に単独(又は複数の男性のみ)で移住
●売買移住。奴隷的地位にある男性が貨幣や物と交換され移住。

mtDNA (女性)が移動する場合
●通常移住。同じ家族(部族)と共に移住する。
●婚姻移住。他家族(部族)の男性との婚姻により移住する。
●拉致移住。他家族・部族の男性に部落外で活動中又は部落を襲われ拉致され移住。
●売買移住。奴隷的地位にある女性が貨幣や物と交換され移住。

日本人のルーツ探しにはY染色体ハプログループが有効 その一

 遺伝子の解析ができるようになったことで、人類起源やその遷移コースの説明が飛躍的にしやすくなったことは非常に良かったのだが、問題点もある。
遺伝子の解析は20世紀末に、殆どが母系のmtDNAに対してから始められた。mtDNAから始められた理由は、当時まだ技術開発が十分でなく、mtDNAが他と比して解析しやすかったことと、一種の「母系神話」があったからでであった。
結果として、「日本人のルーツは数万年前のバイカル湖沿岸地域のある女性である。」との説がまるで定説で最も価値のあるかのように一時期さかんに喧伝された。
私は当時から、その説の極端さとそれをそのまま受け売りで主張する人々に驚嘆し彼らの正気の有無を疑った。
先ず地理的、気候的にみればアフリカを出た新人が北方ルートよりも南方ルートを通って日本列島にいた他方が多いと考えるのが常識で現在でも人口的にはそうだし、母系だけを言い、男系を全く無視しているのでは、女性と男性の社会における役割分担と歴史形成に及ぼす影響の大小を考えると、歴史記述には全く無効の説に過ぎないからであった。

最近では世界中の各民族でのY染色体系統分析が神速で進み民族のルーツ研究が盛んになっている。
ところがに日本では海外ほどにはY染色体の系統分析を用いた日本人のルーツ探しが行われていない。それどころか、古代では現代より更に社会での役割分担に男女の性差が大きかったにもかかわらず、Y染色体とmtDNAの系統解析の意義が、わざとかどうかは分からないがぼやかされて、まるで同じ課のように記述されている。
そこで、先ず、Y染色体とmtDNAの系統解析の意義を再確認しておかなければならない。

溝口墨道の古代史研究 はじめに

                 はじめに                            
 新世紀に入り、遺伝子解析や気象学、炭素による年代測定、国内外での遺跡の発掘が進んだことで、人類の起源やその遷移コースの解明が飛躍的に進んだ。中高生以来40数年間、「日本人のルーツ」に関心があり様々な資料を見、中国生活でも人種を観察もしてきた私にはそれがとても嬉しく期待もしてきた。
 ところが、科学的な手法が開発され、後は国内外の数値を整理するだけで大きな成果が出るのは明らかなのだが、その解明の進展は期待されるほど早くはない。それどころか、未だに3,40年前に良くあったのような、何処かに日本文化と似ている地域があると、まるで空を飛んでそれが日本に伝わったとするような具体性のない説をとなえるのさえ散見する。
 そこで、私は数十年の研究の基礎、中国生活を始めとするアジアでの体験、新しい研究の成果を合わせ「日本人のルーツ」解明の一歩前進に貢献したいと思う。
 先に非常に気になる停滞の原因を述べ、続いて私の研究の方法に述べる。

          日本における古代史研究停滞の理由
 三つにまとめると、現代の日本における社会思潮や政治的国際環境、閉鎖的師弟関係の封建的学術研究体質、近視眼的成果の追求などの現実的な制約条件が、日本人の持つ他者への配慮、正確緻密、順法等を重視する国民性との間で矛盾・混乱をきたさせ、淀んだ空気が自由で客観的な科学的研究を停滞しているのである。

                第一 社会思潮
 敗戦の結果として戦前の行き過ぎた国家主義的な歴史観への反省が、非科学的決定論の歴史経済考察を中心とする社会主義歴史観へと社会思潮と指導的人材が完全に入れ替えられた特殊な現実的状況のことである。そのため唯物主義、ユートピア社会を最終ゴールとする段階的発達史観、ジェンダー問題などが歴史研究にベールを被せてしまっている。

                第二 政治的国際環境
 明治維新以降の日本が白人によるアジア支配、共産主義化に反対しながら自主独立してきた国策が、先の大戦の敗北により、日本が共生され、またそれに雷同した国内勢力の主導で、アメリカ的歴史観とソ連・中共的社会主義歴史観の無条件な受け入れと、日本による自主的な独立した歴史研究の放棄がなされたことである。
その一種の法律的効力を持つ具体例としては反科学、反自由、反民主で悪名高い「近隣諸国条項」がある。
 近隣に配慮するのは結構だが、近隣の中国、ロシア、半島が非科学的、独裁的、腐敗構造の国家で学術研究は時の政権に隷属しまた自己を尊しとし、近隣を卑しくする国家体制、学術水準なので、日本がそれらの近隣の歴史研究に配慮すると、自然と日本本来の水準から下げなければならないので科学・公正・客観を是とする学術においては問題である。

               第三 閉鎖的師弟関係
 日本における歴史研究が、前記のような思潮や国際関係の圧力の下で、それを国内に体制として施行しようと期する学者が、日本人の持つ勤勉で性格、他人を思いやる美点をうまく利用し、真実を探求する自由な研究を排除し押さえこんでいることである。
日本では他者を尊重し、長所を言うのみで欠点を言わず、他者に合わせ自分のわがままを言わないという美点があるが、それが専門以外の領域、他国の研究には踏み込まないということになっている。
又、日本の古代史が日本列島だけを対象としては正確な解明は絶対に不可能であるにもかかわらず、現在の日本、中国、韓国というような国家の既存観念にとらわれ、半島や大陸と日本列島を一体としてみた研究がなされない事につながっている。
本来は研究の発展深化における利点であるべき日本の長所が上述の二点の悪弊を強化させているのは残念である。

そこで私は、上記の弊害に気を付け、分子生物学、原子物理学、気象学・地球環境学研究と遺跡発掘の進展の成果を用い研究する。
 以上に、私の研究動機、私の認識する現状の問題点、私の研究方針を簡単に述べた。

4月3日に熱海の興亜観音で書画奉納を行います。

私は4月3日(火)13:00~、熱海の「興亜観音」で書画奉納をさせていただきます。
「興亜観音」は、特別な霊山です。
 それは、旧陸軍きってのアジア共生主義者の中国通、人格者として人望の厚かった松井石根大将が、図らずも上海方面の総司令官となり南京を攻略し退役した後、日中両国の戦死した兵士の成仏を祈願するために中国の土を用い観音像を焼成し熱海に安置、戦後戦犯として拘留されるまで毎日登山して読経・祈願をし、以後現在に至るまで伊丹師親子により70年間絶やさず真心の法灯がつながれてきたからです。
 更に、東京裁判後に殉国七士の遺骨が秘密りに納められとことがその意味を確たるものとしました。
 私は、そこへお参りするようになってまだ日は浅いですが、自身の生き方が良い方へ大きく変わる霊験を実感しています。
 今回の奉納ではなくても、是非多くの方に興亜観音にお参りしていただき、その霊力を実感していただけますことをお祈りします。

興亜観音へのアクセスは以下の通りです。

所在地:静岡県熱海市伊豆山1136  電話:0557‐80‐0738
【列車で熱海駅へお越しの方】
① 伊豆山行きバス(のりば⑨20~30分毎)で 終点伊豆山下車、徒歩登坂20分。  
② タクシー(料金約1200円)で中腹の山門前下車、徒歩登坂10分。
【お車でお越しの方】
中腹の駐車スペースは5台のみですので事前に電話0557‐80‐0738でご確認下さい。
又は熱海駅前の駐車場をご利用され駅からバスまたはタクシーをご利用ください。

【興亜観音に関しては以下をご覧ください】
興亜観音ホームページ http://www.koakannon.org/
ウイキぺデイア興亜観音 https://ja.wikipedia.org/wiki/
興亜観音興亜観音揮毫チラシ

正確な認識が言論戦には必要

正確な認識が言論戦に必要
~中国経済バブル崩壊説と「中国」という語は無かった説について~
                                      平成30年3月7日
溝口墨道
始め
中国問題が日本にとり死活的な課題であり、日々の言論戦が重要であることは言うまでもない。
反日左翼リベラルによる媚中言論は問題外だが、保守派の「専門家」が中国に関して間違った情報を発信することも、真実と真心に全てを頼る保守派の弱体化に直結するので問題である。
私は中国を多少は知っている身としてそれを正す責務を感じ、本稿を為すが、諸兄の耳を汚すことをお許し願いたい。
下線文
中国のバブル経済崩壊について
一時期「中国の経済は、もうすぐバブル崩壊により壊滅し、中国社会が数か月後に大混乱に陥る」という言論があった。私もその意見に喝采はしたが、一方では心臓が飛び出るほどビックリし、不満にも思った。
何故驚いたかといえば、衆知のように中国では党=軍=学校=マスコミ=企業=……etc.(党の支配下でなくほぼ=の有機的結合の同体)であるから、どれか一つが完全に「●●崩壊」すると「全体崩壊」につながる恐れが大きく、しかも特に中国人は「金」には信じがたいほど拘るので、「もうすぐ経済大崩壊」は「もうすぐ内乱」「もうすぐ共産党崩壊」とほぼ同意義だからである(信じられない人は普通の少し頭の良い中国人に聞くと分かる※註:日本語で聞くと決して本心は言わないが)。
それなのに「数字がデタラメ(※昔は白髪三千丈と言ったように日本的尺度からは全てがデタラメ、、ましてや共産党政権においては議論自体がナンセンス)」なのを発見したかのように言い、結果として「数か月後に全体崩壊が起こる」と事実上公言(何時かは必ず崩壊するが少なくとも数か月以内でないのは明白であるにもかかわらず)してしまったのだから、私はただ驚くほかはなかった。
不満だったのは、経済専門家であれば中国のバブル経済を崩壊させる方法を考えてほしかったことである。
勿論、中国では経済バブルだろうが何だろうが日々崩壊し再生しているが、公平、道徳が元々なく腐りきった土壌だから、崩壊も再生も日本のようには綺麗にはしないことだけは間違いが無く、他者がそれをコントロールすることは難しい。
いずれにしても、結果として、バブル崩壊予想言説がリベラル派により初めから嘲笑されただけで中共の悪、捏造を明らかにするのに寄与しないで終わったのは残念な限りである。

「中国」という語の起源について
 最近「『中国』という語は100年前に清朝を滅ぼした孫文等により発明されたもので、それ以前には「中国」「中国人」などという語も概念も無かったのだから「中国人」などはいない!」という意見を散見する。勿論それは間違いで「中国」「中国人」という語は古来漢人の間で不通に使われていたから、保守派が恥をかかないように踏まえておくべき事実を提出しておきたい。
 以下、それを述べるが一例で十分である。
1700年前の西晋時代に陳寿が著し、日本人には「邪馬台国」の記載や劉備・諸葛孔明の出る『三国志演義』の元本として馴染み深い、中国の正史『三国志・魏書』の中の「東夷伝」だけでも33個の「中国」「中国人」という語が出てくる。(※最後に抜粋を添付したので参照)
『三国志・魏書・東夷伝』では、400年以上漢人王朝の正式な領土であった現在の遼東半島の遼東郡と朝鮮半島中部以北の楽浪郡・帯方郡に接する国家・民族の人口、民族、自然、社会について記載している。
そこで著者は自国や人、言語、風俗について「中國」「中國人」「中国語」「中國袍(服)」と呼んでおり「魏」や「晋」の国号は用いていない。
「然烏丸,鮮卑稍更彊盛、亦因漢末之亂、中國多事、不遑外討、」(註1)
約(烏丸や鮮卑が強くなったが、中国は漢末の乱があったので討伐が出来なかった。)
「赤山在遼東西北數千里、如中國人以死之魂神歸泰山也。」(註2)
  (赤山は遼東の西北数千里にあるが、中国人が死ぬと霊魂が泰山に帰ると信じるのと同じようである)
「禽獸草木略與中國同。」(註3)
「國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。」(註4)
  (そこでは鉄を産出するが韓と濊と倭の皆がこれを採り、中国での銭のように市での売買に用い、
又二郡へ納めている)
「各自有姓、姓如中國之姓矣。」(註5)
  (各々に姓があるが、中国の姓に似ている)
「多知中國語、由與中國錯居故也。」(註6)
  (中国人と雑居しているせいか多くが中国語を話せる)
【結論】
「中国」は国号ではないが古来、国・地域や民族を著す自然な用い方をされていた。
【私の意見】
「中華民国」「中華人民共和国」という国名の問題点の本質は「中国」ではなく、「中華」についてである。
「中華」とは勿論、「中国」と「華夏」の合体で強烈で無条件の漢民族中心の華夷秩序思想を自然と含む。
「中華民国」は正に華夏の漢人がさげすむべき異民族の満州人による300年近い支配から脱する「滅満興漢」運動の自然な帰結として成立し満州人皇帝を追い出し、満州人の財産を奪った。
問題は、かなり漢人化し混住していた満州人でさえ夷狄としたのであるから、同じく満州人の支配及を受けながらも別々の自治で暮らし言語も風俗も全く違うウイグル人やチベット人は満州人の政権が崩壊した段階で「中華」を冠する漢人政府に属するいわれは全くない事であった。
「中華」に属してしまえば、華夏民族(漢民族)でない彼らの存在自体が矛盾となり遅かれ早かれ絶滅させられるのは明らかである。
従って、「中華」を冠する国名には問題があると言わざるを得ず、華夏でない民族は独立の権利を有する事になる。


『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳
 晉 陳壽撰  (宋 裴松之 註)
[烏丸] [鮮卑] [東夷] [夫余] [高句麗] [東沃沮] [韓] [倭人]
   書載 「蠻夷猾夏」、詩稱「玁狁孔熾」、久矣其爲中國患也。秦,漢以來、匈奴久爲邊害。孝武雖外事四夷、東平兩越,朝鮮、西討貳師,大宛、開邛, sak[冠艸脚乍],夜郎之道、然皆在荒服之外、不能爲中國輕重。而匈奴最逼於諸夏、胡騎南侵則三邊受敵、是以[屡]遣衛,霍之將、深入北伐、窮追單于、奪其饒衍之地。後遂保塞稱藩、世以衰弱。建安中、呼廚泉南單于入朝、遂留内侍、使右賢王撫其國、而匈奴折節、過於漢舊。然烏丸,鮮卑稍更彊盛、亦因漢末之亂、中國多事、不遑外討(註1)、故得擅漠南之地、寇暴城邑、殺略人民、北邊仍受其困。會袁紹兼河北、乃撫有三郡烏丸、寵其名王而收其精騎。其後尚,熙又逃于蹋tau[扁足旁冠日脚羽]頓。tau[扁足旁冠日脚羽]頓又驍武、邊長老皆比之冒頓、恃其阻遠、敢受亡命、以雄百蠻。

父子男女、相對蹲踞、悉kon[冠髟脚几]頭以爲輕便。婦人至嫁時乃養髮、分爲髻、著句決、飾以金碧、猶中國有冠歩搖也。父兄死、妻後母執嫂;若無執嫂者、則己子以親之次妻伯叔焉、死則歸其故夫。俗識鳥獸孕乳、時以四節、耕種常用布穀鳴爲候。地宜青[禾祭],東牆、東牆似蓬草、實如葵子、至十月熟。能作白酒、而不知作麹蘗。米常仰中國。大人能作弓矢鞍勒、鍛金鐵爲兵器、能刺韋作文繍、織縷氈[毛曷]。有病、知以艾灸、或燒石自熨、燒地臥上、或隨痛病處、以刀決脈出血、及祝天地山川之神、無鍼藥。貴兵死、斂屍有棺、始死則哭、葬則歌舞相送。肥養犬、以采繩嬰牽、并取亡者所乘馬,衣物,生時服飾、皆燒以送之。特屬累犬、使護死者神靈歸乎赤山。赤山在遼東西北數千里、如中國人以死之魂神歸泰山也。(註2)至葬日、夜聚親舊員坐、牽犬馬歴位、或歌哭者、擲肉與之。使二人口頌呪文、使死者魂神徑至、歴險阻、勿令横鬼遮護、達其赤山、然後殺犬馬衣物燒之。敬鬼神、祠天地日月星辰山川、及先大人有健名者、亦同祠以牛羊、祠畢皆燒之。
 
後袁尚敗奔tau[扁足旁冠日脚羽]頓、憑其勢、復圖冀州。會太祖平河北、柔帥鮮卑,烏丸歸附、遂因以柔爲校尉、猶持漢使節、治廣nei[冠宀心脚用]如舊。建安十一年、太祖自征tau[扁足旁冠日脚羽]頓於柳城、潛軍詭道、未至百餘里、虜乃覺。尚與tau[扁足旁冠日脚羽]頓將衆逆戰於凡城、兵馬甚盛。太祖登高望虜陳、(柳)〔抑〕軍未進、觀其小動、乃撃破其衆、臨陳斬tau[扁足旁冠日脚羽]頓首、死者被野。速附丸、樓班、烏延等走遼東、遼東悉斬、傳送其首。其餘遺迸皆降。及幽州,并州柔所統烏丸萬餘落、悉徙其族居中國、帥從其侯王大人種衆與征伐。由是三郡烏丸爲天下名騎。
 
 【魏書曰:鮮卑亦東胡之餘也、別保鮮卑山、因號焉。其言語習俗與烏丸同。其地東接遼水、西當西城。常以季春大會、作樂水上、嫁女娶婦、konn[髟几]頭飲宴。其獸異於中國者、野馬,[羊原]羊,端牛。端牛角爲弓、世謂之角端者也。又有貂,[豸内],[鼠軍]子、皮毛柔蠕、故天下以爲名裘。鮮卑自爲冒頓所破、遠竄遼東塞外、不與餘國爭衡、未有名通於漢、而自與烏丸相接。

   軻比能本小種鮮卑、以勇健、斷法平端、不貪財物、衆推以爲大人。部落近塞、自袁紹據河北、中國人多亡叛歸之、教作兵器鎧楯、頗學文字。故其勒御部衆、擬則中國、出入弋獵、建立旌麾、以鼓節爲進退。建安中、因閻柔上貢獻。太祖西征關中、田銀反河間、比能將三千餘騎隨柔撃破銀。後代郡烏丸反、比能復助爲寇害、太祖以en[扁焉旁右郊]陵侯彰爲驍騎將軍、北征、大破之。比能走出塞、後復通貢獻。延康初、比能遣使獻馬、文帝亦立比能爲附義王。黄初二年、比能出諸魏人在鮮卑者五百餘家、還居代郡。

【魏略曰:其俗停喪五月、以久爲榮。其祭亡者、有生有熟。喪主不欲速而他人彊之、常諍引以此爲節。其居喪、男女皆純白、婦人着布面衣、去環珮、大體與中國相彷彿也】。
   夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊、度以夫餘在二虜之間、妻以宗女。尉仇台死、簡位居立。無嫡子、有[冠薛脚子]子麻余。位居死、諸加共立麻余。牛加兄子名位宮、爲大使、輕財善施、國人附之。

   侯準既僭號稱王、爲燕亡人衞滿所攻奪。
【魏略曰、昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊爲王欲東略地、朝鮮侯亦自稱爲王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之乃止。使禮西説燕、燕止之不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方取地二千餘里、至滿潘汗爲界。朝鮮遂弱、及秦并天下、使蒙恬築長城到遼東時、朝鮮王否立、畏秦襲之、略服屬秦、不肯朝會。否死其子準立。二十餘年而陳項起、天下亂、燕齊趙民愁苦、稍稍亡往準、準乃置之於西方、及漢以廬綰爲燕王、朝鮮與燕界於bai[偏水旁貝]水。及綰反入匈奴、燕人衞滿亡命、爲胡服東度bai[偏水旁貝]水、詣準降。説準求居西界、故中國亡命爲朝鮮藩屏。準信寵之、拜爲博士、賜以圭封之百里、令守西邊。滿誘亡黨、衆稍多。乃詐遣人告準言漢兵十道至求入宿衞、遂還攻準。準與滿戰、不敵也】
將其左右宮人走入海居韓地、自號韓王。
【魏略曰、其子及親留在國者、因冒姓韓氏。準王海中、不與朝鮮相往來】
其後絶滅、今韓人猶有奉其祭祀者。
   
諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。其立蘇塗之義有似浮屠、而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。(註3)出大栗、大如梨。又出細尾鷄、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。又有州胡在馬韓之西海中大島上。其人差短小、言語不與韓同、皆髠頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬。其衣有上無下、略如裸勢。乘船往來、市買韓中。
  
【魏略曰、其國作屋、横累木爲之、有似牢獄也】
國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。(註4)俗喜歌舞飮酒。有瑟、其形似筑、彈之亦有音曲。兒生、便以石atu[冠厭脚土]其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。其俗、行者相逢、皆住讓路。
   弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施竃皆在戸西。其瀆廬國與倭接界。十二國亦有王、其人形皆大。衣服[旁潔]清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。 

   倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

   男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東。其風俗不淫、男子皆露[糸介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同。倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用hen[冠竹脚邊]豆、手食。其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。出眞珠、青玉。其山有丹、其木有[木冉]、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠[冠竹脚幹]、桃支。有薑、橘、椒、zeu[冠艸脚襄]荷、不知以爲滋味。有bi[扁犬旁爾]猴、黒雉。其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。
   tei[扁右低]人有王、所從來久矣。自漢開益州、置武都群、排其種人、分竄山谷間、或在福禄、或在ken[扁水旁右研]・隴左右。其種非一、稱槃瓠之後、或號青tei[扁右低]、或號白tei[扁右低]、或號[虫冉]tei[扁右低]、此蓋蟲之類而處國、人即其服色而名之也。其自相號曰盍稚、各有王侯、多受
中國封拜。近去建安中、興國tei[扁右低]王阿貴、白項tei[扁右低]王千萬各有部落萬餘、至十六年、從馬超爲亂。超破之後、阿貴爲夏侯淵所攻滅、千萬西南入蜀、其部落不能去、皆降。國家分徒其前後兩端者、置扶風・美陽。今之安夷・撫夷二部護軍所典是也。其(太)〔本〕守善、分留天水・南安界。今之(廣平魏郡)〔廣魏郡〕所守是也。其俗、謂不與中國同、及羌雜胡同、各自有姓、姓如中國之姓矣。(註5)其衣服尚青絳、俗能織布、善田種、畜養豕牛馬驢騾。其婦人嫁時著袵露、其縁飾之制有似羌、袵露有似中國袍。皆編髪。多知中國語、由與中國錯居故也。(註6)其自還種落間、即自tei[扁右低]語。其嫁娶有似於羌、此蓋乃昔所謂西戎在于街・冀・[豕原]道者也。今雖都統於郡國、然故自有王侯在其虚落間。又故武都陰平街左右、亦有萬餘落。
  
   盤越國一名漢越王、在天竺東南數千里、與益部相近、其人小與中國人等、蜀人賈似至焉。南道而西極轉東南盡矣。
  
   海西有遲散城、從國下直北至烏丹城、西南又渡一河、乘船一日乃過。西南又渡一河、一日乃過。凡有大都三、卻從安谷城陸道直北行之海北、復直西行之海西、復直南行經之鳥遲散城、渡一河、乘船一日乃過。周迴繞海、凡當渡大海六日乃到其國。國有小城邑合四百餘、東西南北數千里。其王治濱側河海、以石爲城郭。其土地有松、柏、槐、梓、竹、葦、楊柳、梧桐、百草。民俗、田種五穀、畜乘有馬・騾・驢・駱駝。桑蠶。俗多奇幻、口中出火、自縛自解、跳十二丸巧妙。其國無常主、國中有災異、輒更立賢人以爲王、而生放其故王、王亦不敢怨。其俗人長大乎正、似中國人而胡服。自云本中國一別也、常欲通使於
中國、而安息、不能過。其俗能胡書。其制度、公私宮室爲重屋、旌旗撃鼓、白蓋小車、郵驛亭置如中國。從安息繞海北到其國、人民相屬、十里一亭、三十里一置、終無盗賊。但有猛虎、獅子爲害、行道不羣即不得過。其國置小王數十、其王所治城周回百餘里、有官曹文書。王有五宮、一宮間相去十里、其王平旦之一宮聽事、至日暮一宿、明日復至一宮、五日一周。置三十六將、毎議事。一將不至則不議也。王出行、常使從人持一韋嚢自隨、有白言者、受其辭投嚢中、還宮乃省爲決理。以水晶作宮柱及器物。作弓矢。其別枝封小國、曰澤散王、曰驢分王、曰且蘭王、曰賢督王、曰[シ巳]復王、曰于羅王、其餘小王國甚多、不能一一詳之也。國出細[糸希]。作金銀錢、金錢一當銀錢十。有織成細布、言用水羊毳、名曰海西布。此國六畜皆出水、或云非獨用羊毛也。亦用木皮或野繭絲作、織成[瞿毛][兪毛]、tau[扁冠日脚羽旁毛][登毛]、kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]帳之屬皆好、其色又鮮于海東諸國所作也。又常利得中國絲、解以爲胡綾、故數與安息諸國交市於海中。海水苦不可食、故往來者希到其國中。山出九色次玉石、一曰青、二曰赤、三曰黄、四曰白、五曰黒、六曰緑、七曰紫、八曰紅、九曰紺。今伊吾山中有九色石、即其類。陽嘉三年時、疎勒王臣槃獻海西青石、金帯各一。又今『西域舊圖』云kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]賓、條支諸國出[王奇]石、即次玉石也。

中国人の言う苗族の日本への移民説

現代の中国においては様々な古代民族が大陸から日本へ移住されたとされている。
例えば、漢族の他に東夷、淮夷、呉越等が挙げられているが、変わったところでは今では日本列島と隔絶した地に住む苗族である。苗族は、古代には中国の広い平地に住んでいたが漢民族に追われ今では山間地に住む少数民族である。少数民族とは言えベトナム・ラオスのも含めれば1600万人いる。
彼らは漢民族に追われ歴史上五回も大移動をして五回目は東海岸に至り一部は日本へ渡ったとするのである。
以下その経緯を簡単に紹介する中国分があるので転載する。
民族迁徙

根据专家的研究,苗族历史上五次大迁徙的情况如下:

第一次大迁徙,是苗族先民以其发源地今四川的雅磐江、岷江、巴江、嘉陵江四水的上中流域地带,沿长江向东迁徙到长江中游的南北两岸:南岸的达到洞庭、彭蠡之间定居下来;北岸的达到江汉平原。在这里居住了很多年,随着生产的发展,生活改善,人口增多,科技文化水平也日益提高。这是苗族首次由西向东的大迁徙,大迁徙的原因是远古羌人南下,迫使苗族先民向东迁徙,时间约在若干万年以前(原始初民社会)[6] 。


第二次大迁徙,是苗族先人在长江中游居住很久之后,人多势大,号称“九黎”,与南方的炎帝族发生矛盾,打败了炎帝族,一部分追逐炎帝族直达黄河北岸。在这里又经过了很多年,九黎族的势力越来越强大。这时诞生的蚩尤,聪明好学,勇敢善战,后来成了九黎族的首领,制造多种兵器,军事力量强大,与来自黄河上游的黄帝族发生武装冲突。起初黄帝九战九败,后来联合炎帝族等,与蚩尤大战于涿鹿之野,结果蚩尤战败被杀,身首异冢。从此九黎族的各部虽与黄帝族斗争了很长时期,但终因群龙无首屡战屡败。这次由南向北的迁徙,时间约在4300—4600年之前(远古到黄帝)[6] 。


第三次大迁徙,蚩尤战斗失败很久以后,九黎族的各部属,大部分经过长途跋涉,退回到南方。在江南的洞庭、彭蠡之间,建立起三苗部落联盟。这是由北向南的迁徙,时间约4200—4100年之前(黄帝到唐尧)[6] 。


第四次大迁徙,苗族先人在洞庭、彭蠡之间辛勤耕耘,建立起三苗部落联盟,又经过了长时间的休养生息,渐渐强大起来。唐尧很惧怕三苗、共工、欢兜(即“驩兜”)等,故到舜即位,马上“分北三苗”,流共工于幽州;放欢兜于崇山;窜三苗于三危;殛鲧于羽山,强大的三苗部落联盟从此分化瓦解。有部分人还逃到了东海,这支苗族的先人也保存了一个独立的群体。只有被流窜到三危的一支,斗争不止,直到夏禹时期才初步归顺,在三危山一带居住下来。这次是分途迁徙,迁徙的方向各不相同,如三苗是由南向西北迁徙;其中部分是向东迁徙;欢兜是基本未动,即从洞庭、彭蠡之间转移到今湖南西部。时间大约在4100年之前(虞舜——夏禹时期)[6] 。


第五次大迁徙,这次迁徙是分途回归。如:被逐到三危的一支(三苗),是原来力量最强的一支。他们整体逃迁中屡遭武装掠夺,一次次抵抗,一次次战败,一次次逃迁,从三危山出来,经过大雪山、渡过浑水河(黄河),朝着南风吹来的方向一步步迁移,过甘肃、青海,经产牦牛、骆驼的“藏彝走廊”,沿金沙江到川南、滇东北和黔西北这支苗人的迁徙方向是由北向南。被放逐到崇山的一支(欢兜),都是近距离的迁移,即由崇山往东,曾达到今湖南常德一带,又沿水达到洞庭、彭蠡之间,后来周王朝视为隐患,宣王“乃命方叔南伐蛮方”。到战国时吴起发武力“南并蛮、越”,占有洞庭、苍梧等蛮、越之地。这支苗人被迫逃进武陵山区,刚发展强大一点,又遭到东汉王朝的一再进剿,又被迫“朝着太阳落坡的地方”逃迁,最后达到今湘西、黔东北、川东南和鄂西南一带。这支苗人迁徙的方向是先向东、后向西。往东逃迁的一支(三苗中的部分有苗),也没有在东海岸边长久定居,而是慢慢离开海边,逐步往西归迁。他们中间有的人(约在四千年前后)可能渡海去了日本



韓国人の一部は祖先がツングース(エヴェンキ等)と思っているようだ

新羅語・百済語・高句麗語・加羅語等の古代半島の言葉がどのようなものかは未だに判明していない、現代の朝鮮韓国語の生成過程は分かっていない。
韓国人の一部は祖先がツングース(エヴェンキ等)と思っているようだ。
数年前の韓国のネット記事にロシアのサハ共和国で活動する韓国人教授の手記が載っていたので翻訳してご紹介する。
以下全文。溝口訳。
去る20日放送通信大で開催された‘2010年第11次在外同胞フォーラム’にカン・トクス韓国・沙下(サハ)親善協会会長が演説した。 カン会長は‘ヤクトゥインとエベンキインの人生’という主題で提案を進めた。 以下はその内容要約である。 <編集者 注>

最近ロシアのサハ共和国が上昇している。
世界のダイヤモンド生産量の50%がサハ共和国出土で、石油、天然ガスは開発初期段階で、埋蔵量はロシア全体35%を占める。この国の人口はわずか100万人だけで、南北を合わせた半島の面積の15倍に達するのを考えると大変少ない数字だ。ロシアの様々な行政区域のうち最も広いのは勿論、世界の色々な国家行政区域中でも最も広い。 モスクワが最も神経を多く使う所がサハ共和国という話もある。我が国はLGなど大企業が活動し、サハ共和国もやはり韓国を経済発展のモデルとして見て夢を育てている。だが、サハ共和国は1990年代にはそれほど注目されない所で、私は16年前こちらにサハ韓国学校設立者になったのも、 本当に偶然というほかはない。国内のある大学教授がサハ共和国に何万ドルかを支援するという守れない約束をしたことで縁が始まった。 教授は韓国学校を設立すればそちら学生たちを我が国で研修させるという条件を設けた。ところが教授が突然行方不明になったので、そこの人々が私が学長であった外国語大を探したのだ。事実は今もそうなのだがサハ共和国の人々の韓国に対する期待が大きく、韓国に一度来る夢を大事に持ち続けていたので、背信による失望がより一層大きかった。
とにかくかわいそうな事情を聞いて、説明できない責任感により外国語大学教授とサハ共和国とが交流事業をする、橋渡しの役割をした。 そして今では副大統領になった当時の教育長がその過程を見守っていて私を韓国学校共同設立者で推戴した。
このようにして設立されたサハ韓国学校は他の国家の名前が前についた唯一の正規学校になった。中国が一足遅れで韓国学校を東洋学教に直そうとするなど努力したが効果はなかった。サハ韓国学校では現地の人たちにテコンドー、韓国語、韓国の文化を教え、最初の韓流をまき興した。このような理由が全部ではないがサハ共和国では韓国に対する認識が非常に良く、韓国食が愛されて、韓流の日もある。幸いなことに10年余りの間学生たちと先生の交流関係は持続している。中国と日本は脅威と感じるが、私たちの民族とは攻撃も侵略もしなかったために協力関係を結びたがる。しかしサハ共和国には名誉領事もないので、私が大使館の役割、サハ共和国での代表として紹介されてきた。16年前ドアを開けたサハ韓国学校には250人の学生がいるが、いわゆる英才学校で、入学競争率が6対1に達し、シベリアにおける韓国文化伝播の拠点と認識されている。
サハ共和国ではこの他の意義を発見することができた。韓国語の根源を探すのと関連がある。こちらで10余年間いたので、こちら言語の一つのイン エヴェンキ語を習うことになった。韓国語の起源はどのようであったのか? 誰も答え難い。その生成過程が失われているためだ。 サハ共和国には約40万のヤクート人と4万の私たちの容貌とうり二つのエヴェンキ人が生活している。 驚くべきことにこの4万のエヴェンキ人の言語が韓国語と非常に似ている。
例えばその国での名詞、・、ダイコン、アミ、アキなどは韓国語で石、水、親父、アラ(おじさん)で使われるのを発見することができる。 チャバは韓国語ではよく、こいとくるとに使われる。 家親は一緒にで、アラナランはよちよちで使われる。 エヴェンキ、エベン、ナナイ語などが韓国語の語源と同じでツングース-満洲語から派生したことが証明されている。
我が国は過度にこの国の利権だけを狙おうとする考えを捨てるべきであると言いたい。韓国のイメージが良いが純粋な人々を利用する韓国人がこれを曖昧にしているし、韓国の対外政策も問題だ。例えば途方もない付加価値があるダイヤモンド市場は我が国の高い特別消費税で滞っている。既存国内市場に対する憂慮のために安くダイヤモンドを持ってくることができない。インド、日本、中国などが皆サハ共和国の鉱物市場をうらやましがる。 だが、基本的に適正価格を短期的な市場でなく長期的な協力者関係になることをそこの人々は望んでいる。サハ韓国学校の意義は非常に大きいと考える。 私たちが結んでいる教師、学生交流は持続しなければならない。サハリンには高麗人同胞も5千人が生きている。だが、過度にこれのための政策を広げるのは現地の人たちに悪い印象を与えることとなる。過度に同胞だけを拡大して政策を広げようとするのは下策だ。私たちの民族だけを前に出すのも狭量だ。言語が流れてきた過程をサルピョボミョンエヴェンキ人と私たちの民族は同じ根元から出発したとのことが分かる。 シベリアと我が国は大きく見れば同じおじいさんを持っているわけだ。
プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

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