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1937年7月7日の盧溝橋事件から1945年8月15日までの8年戦争の戦争に目的はあったのか?

 1937年7月7日中国北京郊外の盧溝橋で起こった小規模な発砲の軍事衝突が起きたが、一人の使者・負傷者がゼロで、現地の日中軍の間では平和解決が同意され、多くの国民・関係者にその意思が無かったので大規模な戦争にはならなかったはずである。しかし、事実は全く反対で、日本国内では無理やりに只々一直線に開戦に向けて、朝日新聞を急先鋒とするマスコミが支那の卑怯・脆弱・悪を報道し国民を洗脳し開戦へ扇動し、一方で慎重であるべき政府は軍の要請もないのに一方的に突然に膨大な出兵予算を決定し、また軍部の一部も従来の対ソ戦準備優先を無視して支那膺懲を叫び、中国国内での大規模軍事行動を推進したのである。

 その開戦の目的・意思は戦後の東京裁判でも明らかにならなかった。A級戦犯と呼ばれる当時の国家指導者たちは正直に証言したが、そのどこにも明確な戦争開始目的は無かったのである。

 「田中義一の上奏文」等という偽書にあるような、日本民族による世界征服の野望・計画などが今でも欧米・中国の一部でそれが信じられているが、日本人にはそのような意思の無かったことは全く明らかで、日中事変でさえ中国本土の征服後の姿などは全く考慮されておらず、ましてや日米戦争後の米国占領法案などは想像の外であった。

 左翼思想者の丸山眞男が言ったように「日本の最高権力の掌握者たちが実は下等の下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やごろつきにひきまわされてこうした匿名の勢力の創った既成事実に喘ぎ喘ぎ追随して行かざるを得なかった」(『現代政治の思想と行動』)というような現象があったことは間違いがないが、丸山は意識して8年戦争(支那事変・大東亜戦争)の開戦責任者を隠している。
 支那事変・大東亜戦争の開始の世論を形成したのは朝日新聞を始めとする主流論壇で、開戦を決定し予算を組んだのはいずれも近衛文麿内閣で、実施を命じられ実行したのは軍部であり、同時に大政翼賛会に政治を統一させ議会制民主政治を事実上廃止させ、企画院を設置し経済を計画経済にし国民の経済活動・財産を国の統制下に置き、国家総動員法で男も女も老いも若きも平等に国の命令でいつどこへでも勤労奉仕するようになったのに、企画立案者がいなかったとでもいうのだろうか?
 まるでソ連の社会主義と似た体制であるが、隣国でのそのような体制の誕生から急成長を見て来た国内の社会主義者が、それを模倣しないとでもいうのだろうか?
 そんなはずはない!
 私はそれを徐々に明らかにしてゆくつもりである。

 
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「仏の慈悲」「神の愛」と「宇宙の引力」

宇宙の物質(我々人類も含めて)は引力・重力という見えない力により形作られているが、またそれの崩壊により所謂形態は消失する。
 人類には「慈悲」「愛」などの言葉で表される見えない心の力がある。その力は子孫繁栄の源泉の動力となっている。
 二人の男女が引き合い子が生まれ、家族としてまとまり守りあい、更に共同体を形成する。そして子供が成長しまた他の男女と知り合い引き合って子孫を生んでゆく。

 「慈悲」や「愛」というのが我々(人類だけでない宇宙全体)の存在そのものと関係がある、更に言えば「存在」そのものであると言える。

近衛文麿一派と中国共産党の戦争への世論誘導は似ていた(中国の場合)

1920年代に入ると、中国では先ず革命後のソ連の指令で中国の社会主義者を中心として「日本悪玉論、日本が中国を侵略している論」が日夜宣伝された。
ソ連共産党の指令の目的は、最大直接敵対勢力である満洲の関東軍の背後に軍事衝突を起こし、その北進を断念させることと、軍事衝突による中国の後輩に付け入りそこを共産化する事であった。
 当時の中国代表政府(国民党政府)が日本とは戦争しない売国政府であり、共産党おそが「抗日」を指導するとの虚偽宣伝を続けた。

 ソ連だけでなく欧米をも巻き込んだ「反日」の深化固定化により、国共合作抗日戦争政権に持ち込み、将来の革命内戦への布石を完了した。
 同時に国民党だけを日本軍と戦わせただけでなく、背後から共産党軍は国民党軍を攻撃し、更には国民党軍の軍事情報を日本軍に売るというように一挙両得どころではなく一挙三得・四得・五得の策を実行した。

 それらは敗戦による日本軍部の消滅と中国、朝鮮北部、ベトナムの共産化という、ソ連及び世界の社会主義者にとっての大成功となったのであるが、はたして日本はそこでどのような役割を果たしたのであろうか、現行の現代史なり東京裁判、中国の愛国基地の通りの単純な軍国主義侵略こっかであったのであろうか?

 それを以後、数編で検証してみたい。

A級戦犯(平和に対する罪)で死刑なのはスターリン、毛沢東、ヒトラー、ルーズベルト、近衛文麿である  1. (その前提)

前提①
1943年11月の米英ソ外相会談によるモスクワ宣言で、「残虐行為を行った者は、戦後、その行為を行った地域に送還され、その国の法律によって裁判に付され処罰すること」「残虐行為が特定の地理的範囲を持たず、かつ、連合国諸政府の共同決定によって処罰されるべき重大犯罪人であった場合は、第1に掲げた原則に影響されない」という二つの原則が合意された
前提②
第二次世界大戦連合国によるポツダム宣言が有効であるとするならば、宣言六條に基づく極東国際軍事裁判所条例第五条の、a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪の3つの罪に当たる者は告発され裁判にかけられ処罰されなければならない。

仏教が説く「空」「有無」は宇宙の実相

 『妙法蓮華教如来寿量品第十六』に「余がこの上なく完全な「さとり」をさとって以来、既に幾千万億劫という多くの時間を経過しているのである。たとえてみれば、すなわち、その数は五十・千万億という世界にある大地の微粒子の数に等しいのである。さて、ある人がこの世界に生まれてきて、この微粒子の一つを手にして、東方における五十・千万億(アサンキーヤ)という無数の世界を超えて行き、この微細な粒子の一つを捨てるとしよう。この方法によって、一回に一粒子ずつ幾千万億劫(カルパ)のあいだ捨てつづけて、かの人がすべての世界を大地のないものとするとしよう。」とある。
 又、 『妙法蓮華経分別功徳品第十七』に「心から帰依する気持ちを起こした人の、アジタよ、福徳や善根の蓄積に比べると、前者の、贈物により阿羅漢の位に到達させたことに伴って生ずる福徳の蓄積は、その百分の一にも及ばず、いな千分の一にも、十万分の一にも、一千万分の一にも、一億分の一にも、十億分の一にも、百億分の一にも、一千万憶分の一にも及ばないし、計算することも、比較し対照することもできないのだ。」、『妙法蓮華経随喜功徳品第十八』に「アジタよ、この「如来の寿命の長さ」に関する解説という教説が説かれている間に、六十八のガンジス河の砂の数にひとしい幾千万憶という菩提行者たちが、この世に存在するものは生ずることもなく、滅することもないという真理を会得するに至った。
さらに、その千倍の、偉大な志を持つ菩提行者たちが偉大な志を持つ菩提行者の持つべき記憶力を得た。
また、一千世界の大地の極めて微細な粒子の数にひとしい、偉大な志を持つ菩提行者たちは、この教説を聴いて、滞ることなく巧みに弁論する才能を得た。
また、二千世界の大地の極めて微細な粒子の数にひとしい、偉大な志を持つ菩提行者たちは、この教説を聴いて、幾千万憶回も回る念力を得た。
また、三千世界の大地の極めて微細な粒子の数にひとしい、偉大な志を持つ菩提行者たちは、この教説を聴いて、ひるむことなく教えの車輪を回した。
また、中くらいの世界の大地の極めて微細な粒子の数にひとしい、偉大な志を持つ菩提行者たちは、この教説を聴いて、汚れのない光輝の車輪を回した。
また、小さな世界の大地の極めて微細な粒子の数にひとしい、偉大な志を持つ菩提行者たちは、この教説を聴いて、八回生まれ変わったのちに、この上ない完全な「さとり」に到達した。
また、四つの四大洲の大地の極めて微細な粒子の数にひとしい、偉大な志を持つ菩提行者たちは、この教説を聴いて、四回生まれ変わったのちに、この上ない完全な「さとり」に到達した。
また、三つの四大洲の大地の極めて微細な粒子の数にひとしい、偉大な志を持つ菩提行者たちは、この教説を聴いて、三回生まれ変わったのちに、この上ない完全な「さとり」に到達した。」とあるように、仏教では空間時間が無限大で、無限小であると説く。

宇宙(=存在)は無限であり、有限で、無限でなく、有限でもない。

もうそろそろ人類は、事実に目を向け全てを考え直さなければならないのだろうか。

 2017年時点、所謂科学の発達により、解かっているだけでも、我々の生きる宇宙に始末があり、又別の宇宙が同時に存在する、また小さい方へは、分子→原子→素粒子→さらに何かへ至る。更に、存在自体が十数次元あるとされている。
 
 ここまで来たならば、もういいだろう。
広域の方へ眼を向ければ、我々の宇宙の外に無数の別宇宙があり、更に言えば、無数の宇宙で形作る巨大宇宙がまた無数にあり、更にそれが……、……と無限に続いている事。
小さい方へ眼を向ければ、素粒子を銀河系位に拡大して見れば更に粒子があり、更にそれを銀河系位に拡大すれば粒子があり、更に……、更に……、……と無限に続いている事。
また、見えない力・存在が充満している事。

そして、それらの全ては人の感覚器官からは生死を繰り返しているとされている。
であれば当然存在に付随する次元も無限に大小し、生死するであろう。

と言うことは存在の一部である我々も、無限大きく小さくなり、生きる時間も無限に長く短くなるのである。
つまり、我々は、存在するが、同時に存在しない。したがって生まれてもいないし、死にもせず、生まれなくもないし、死ななくもないのである。

以上を類推することは、非常に所謂「科学的」だと思う。







プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

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