FC2ブログ

南京占領直後の松井大将の南京城内移動経路から、南京大虐殺が嘘であることが良く分かる

南京占領直後の松井大将の場内移動経路
『松井石根大将の陣中日誌』精読  2
~松井大将の南京での行動経路と日誌記載から分かる大虐殺の嘘~

1990年代に美術史研究大学院生として南京で3年暮らし、自転車で街中を徘徊し南京市内の土地勘がある私が『松井石根大将の陣中日誌』中の南京陥落直後の松井大将の行動経路を見ると、南京大虐殺が嘘だと断言するしかない。そこで、私の持てた確信を他の方々にも共有していただきたく思い小文を書くことにした。
先ず、地図に移動経路を現わした。続いて、それと東京裁判で南京大虐殺の最高潮期とされる占領後の1,2週間の真っ只中の五日間の松井大将の日誌の記載を合わせて考察した。すると、松井大将が本当に「大虐殺」など見ていなかったことが、更に確信できることとなった。
松井大将は日誌の中で、虐殺に怒るどころか南京城内の戦火の収まり難民が安心しているのを見て、上海上陸以来、初めて安眠したと書いているほどなのが事実であった。
 以下、私の考察と小結を記し、田中正明氏の注を付す。
 
第1日目:12月17日
①中山門から国民政府までの市の東西を真直ぐに貫き数キロ先まで見通せる幅広の大通りである中山東路の騎馬入城行進は誠に悠然たるもので周囲に支那人の姿は全くなく平穏であった(記録映画「南京」等を参照)。騒然とした掃討戦・虐殺のさなかに騎馬で整然たる入城行進などは出来ない。大将は日誌に「朝香宮軍司令官殿下最も御健祥に、御機嫌亦極めて麗はしく」と記したが、元々皇族宮の将軍を不快にさせる可能性のあることは絶対にしないし、出来ないから城内の東部は平穏であったと考えてよい。
②中山東路の入城式に続いて国民政府での式典を終えると、中山路→中山北路を通り市の北部の首都飯店(現在は南京市鼓楼区中山北路178号の華江飯店)の宿舎に入った。ということは南京市の中心街を通り抜け国際安全区の東側の南から北までの全てを見ながら宿舎に入ったことになる。従って、第一日目だけでも南京市のかなりの部分を見たことになる。
③首都飯店(現在の華江飯店)は揚子江の埠頭や南京駅から市に入る外国や国民党の要人が常宿する最上級のホテルを日本軍が接収したのだが、市の北側にあったので、市民が安全区に避難していて静かな当時の南京市内は勿論、特に夜は、もしも揚子江方面や玄武湖方面で小銃・機関銃・爆破の音などがしても、松井大将には聞こえたはずだし、上層階や屋上からは遠望ではあるが様子が窺えたに違いない。
④松井大将は入城第一日目に以上のような行動経路を経たうえで日誌に「沿道市中路上支那人極めて稀なるも、幸に市中公私の建物は殆ど兵火に罹り(かり)あらず、旧体を維持しあるは萬幸なり。」と記した。
【小結】
以上の状況と、松井大将が上海上陸以来、再三再四、支那人の愛護、窃盗・強姦の厳禁、殺人などはもってのほかの重罪での処罰で国際法の厳守を訓示・命令していたことからすると、松井大将は入城第一日目には一切日本軍による違法・残虐行為を見ておらず、市内のかなりの範囲でそのような行為が無かったこと判断っするほかない。

第2日目:12月18日
①「今暁降雪小量あり、」とあるが、私の経験では南京の冬は東京よりかなり寒冷である。内陸、北方より大陸の厳しい寒気が来た時は特に寒かった。それからしても、南京虐殺の者として、国民党政府やアメリカで公開された写真、映画に多く夏服の日本兵又は日本兵もどきが見られるが、それは絶対にありないことで全くの捏造であることは間違いがない。
②松井大将は宿舎を発し昨日の道を逆に城内飛行場に至り「忠霊祭」を挙行。対し訓示を与へた。式後、上海派遣軍、第十軍両軍司令官、師団長に対し、「一、軍紀、風紀の振粛。二、支那人軽蔑思想の排除。三、国際関係の要領」に付いて訓示した。松井大将は「予は祭主として祭文を朗々読み、感亦無量なり。」と日誌に記したような高揚した気分で会った。又漢詩「奉祝南京攻略」「南京入城式有感」二種を詠み揮毫も披露した。
③宿舎に帰ると大将は日誌に「これにて上陸戦闘以来の一段落を終へ、此夜は早く安眠す。萬感交々到る。」と記した。主要な戦闘が終わり静かになったので、上海上陸以来初めて心安らかに睡眠ととることができた。今までの苦労に関する様々な思いが蘇っていたのである。
④又、日誌に「又此日軍報道部長を招き、南京攻略後の軍の態度に関する予の所感を述べ、司令官談として発表せしむる事とせり。」と記したように、既に大将は日支の関係改善に資する軍政の構築と実施に勤しんでいた。
【小結】
二日目で、大将は戦闘の一応の終了を確認していること、松井大将の性格・人柄からすると、眼前で婦女子を含む市民が自分の部下に虐殺されている状況で「安眠」できることは絶対にありえないこと等から、当時が大虐殺の最高潮期で毎日千人以上の婦女子を含むあらゆる市民が虐殺され町が血の海になっていた(東京裁判)ことは絶対にないと確信できる。

第3日目:12月19日
①この日大将は、幕僚数名を従えて、市内東西の高所である清凉山と北極閣に登り、南京城内外の形勢を広く看望した。
清凉山からは市の南部と国際安全区が一望でき、又西の城外の様子もが伺えた。そして清涼山から漢中路を通り鉄道の脇を北上し北極閣に至ったと思われる。北極閣からは市内東部全体が見渡せた。
②大将は宿舎に帰ると日誌に「城内2,3ヶ所に尚兵火の揚がれるを見るは遺憾なれど、さしたる大火にはあらず、概して城内は殆ど兵火を免れ、市民亦安堵の色深かし。」と記した。
【田中正明注】
大将は幕僚と共に占領下の南京市内を視察して、「城内は殆ど兵火をまぬがれ、市民亦安堵の色深し」と述べているが、東京裁判によると、占領から一週間、つまり13日から19日までが、“南京大虐殺”の最高潮期で連日何千人もの虐殺が続き、市中は死体で埋まり、血は河をなし、日本軍の放火、略奪、暴行、強姦は頂点に達したとし、その死体だけでも12000あったと告発されている。
【溝口注】南京市内の瓦礫の下で便衣兵に両親を殺されて泣いていた乳飲み子の女の子を松井大将は救出して松子と名付けて我が子としたとされる。
【小結】
「清凉山」と「北極閣」に行ったことからも、何処へ行けば効率よく占領後の状況を理解できるかを熟慮していたことが分かる。勿論松井大将は以前に南京を訪れたことは何度もあったので、その地理は理解しており、それは難しい事ではなかった。
そしてその二か所の高地から見たにもかかわらず、2,3ヶ所の小さな火しか見ていないことから松井大将自身も占領の順調な進展を確認したであろう。

第4日目:12月20日
安全区内にある日本大使館に行き新着の外交官と話し合った。以下当日の日誌全文を載せる。
「此日大使館に到り新着の領事館員等と会見し、状況を聞く。曰く、去る7月大使館引揚当時支那側に委託したる我公使館建物は一部の小奪掠の外、概して相当に保護せられ、殊に大使館の建物は内容共完全に保存せられあるは、支那側の措置としては寧ろ感服に値すべきか。又避難区に収容せられある支那人は概して細民層に属するものなるも、其数12萬余に達し、独、米人宣教師の団体と紅卍字会等の人共と協力して保護に任じあり。聞く江蘇省政府は其引上に際し、独人シーメンスのもとに銀十萬両と南京現存の糧米を託して保護を依頼したるものなりと云ふ。真否明らかならざれど既に城内に備蓄せられある糧米は1万担に達し、外にも尚隠匿せられあるものあり、当分の間居民の糧食に事欠く事なしと云ふ。支那要人等著名のものにて残留せるもの見当たらざるも漸次相当資産階級のものも顔を出し来る模様に付、其内矢張り治安維持地方自治の支那人団体を形成するを得べき見込みなり。此の南京の宣撫班は最初軍特務部をして之に当たらしむる積もりなりしも人不足の為に矢張り、上海派遣軍をして適当の人(隊長)を選び、特務機関、領事館のものをも併せ指揮して宣撫に当たらしむる事とせり。尚聞く所、城内残留外人は一時多少恐怖の色ありしが、我軍(による)治安漸次落付くと共に漸く安堵し来たれり、一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)、強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なれど洵に(まことに)遺憾なり。」
①占領後直ちに日本大使館を取り戻し、安全区の責任者及ジャーナリスト、宣教師、教師等の諸外国人と接触し彼等から様々な要求を受けた日本外交官が松井大将と会って言うのは順調な占領の進展である。
②ここでも、松井大将の「宣撫工作」「インテリジェンス」を最重視する姿勢が窺える。松井大将は、だれと会っても「大亜細亜主義」を提唱し、反共反蒋勢力を結集した日支の提携を説いた。
【田中正明注】 
①松井大将が忠霊祭で激怒して訓示したのはこの「少数の奪掠」や「強姦」であって、大将が市民や捕虜の大量虐殺を知ったから「泣いて怒ったのだ」ろうという秦邦彦氏の推論は、とんでもない邪推である。大将が南京に虐殺のあったという噂をきいたのは昭和20年の敗戦後のことである。
②松井大将が、占領当時の南京市民「12万余」という情報を得ている点注目すべきである。20日の段階で、すでに市民は「安堵し来たれり」と述べている。
【小結】
もしも当時、大虐殺が進行中であったら安全区には虐殺から命からがら逃れた人々が数万人も流れ込んだはずで、当然、外国人や支那人の責任者たちは必死になって、日本の外交官に対して直ちに虐殺を停止する事、虐殺実行者の厳罰、虐殺現場(当時虐殺中)での現場検証を強く要求しただろう。ところがそれは無かった。
 それとも安全区の責任者及ジャーナリスト、宣教師、教師等の諸外国人達は、眼前の大虐殺を無視して加害者である日本軍に、一切抗議をしないほどの、悪人であったのであろうか?
 大虐殺などは全く存在しなかったから当然抗議もしなかったのである。
 勿論、戦争につきものである略奪・暴力・強姦等がごく少数あったであろうことは当然であるが、日本軍によるそれらは国民党軍が自国民にするよりも圧倒的に少なかったから現地では大騒ぎにならなかったのである。

第5日目:12月21日
この日松井大将は、南京城最北部の挹江門附近及下関を視察した。日誌には「朝10時発、挹江門附近及下関を視察。此附近尚、狼藉の跡のままにて死体など其儘に遺棄せられ、今後の整理を要するも、一般に家屋等の被害は多からず、人民も既に多少宛(ずつ)帰来せるを見る。」とある。
①「狼藉の跡のままにて死体など其儘に遺棄せられ」とあるように、挹江門附近や下関は多くの死体が散乱したり、揚子江岸に浮かんでいた場所であった。何故、現場に死体を放置したまま、外国人や市民、特に国際法違反兵を厳罰に処する松井大将にも平気で見せたのだろうか?
「狼藉の跡」が日本軍によるものでなく、敗残国民党軍によるものだったから、至急の整理の要が無く、そのまま放置されていたのである。
②「一般に家屋等の被害は多からず、人民も既に多少宛(ずつ)帰来せるを見る。」とあり、占領直後にすでに一部の庶民は帰宅していることから民衆は日本軍を恐れていなかったことが分かる。
【田中正明注】
 ①「大虐殺派」のいうように、死体の中に女子どもが、多数いるとか、石油をかけて焼いたとか、そんな光景を視察して松井大将が黙っているはずがない、戦争による敵の死体ゆえ、司令官の視察に際しても警備隊は「其儘に遺棄」しておいたのである。②すでにこの時期、人民は平和の回復した南京に帰来しつつあったのである。20日付の朝日新聞は帰来する難民の群れを保護している写真報道を大きく掲載している。
【小結】
この日の記載は、象徴的である。卑怯な南京守備軍司令官が、退却または投降、転進などの命令を残さないまま自分だけが生き残るために秘密裏に先に逃亡したので、その後の南京守備軍は指揮系統が崩壊し大混乱となった。
 元々、日本軍より軍紀がゆるい国民党軍であったが、蒋介石をはじめとする首脳の脱出、死守を誓い南京と共に死ぬと公言した司令官の逃亡により遂に完全な無法集団となった。
 日本軍は南と東から攻めてくると見られていたので、敗残兵・脱走兵は挹江門附近及下関地区に殺到した。(南と東の地域で攻めてくる日本軍と戦う兵隊はほとんどなかったということか)。
 彼等は、少ない逃げる手段と場所を争う同士討ち、平服を得るための民衆殺害、督線隊による自軍攻撃、敗残脱走兵による民家略奪、清野作戦による放火・略奪・殺害等々の混乱の極致になり阿鼻叫喚の体をなしたことは資料にも記録されている事である。
一方で、日本軍の占領後、民衆は国民党軍が去ったことで安心し、敵であるはずの日本軍の充満する市内に。数日後には帰宅を始めた。それからも日本軍と国民党軍の規律の違いが明確に分かる。

第6日目:12月22日
松井大将は、水雷艇「鴻(おおとり)」に便乗し南京を離れ、午後1時上海市政府埠頭に安着した。
その日の心境を日誌に「上海出発以来恰度(ちょうど)2週間にして南京入城の大壮挙を完成し、帰来する気分は格別なり。之より謀略その他の善後措置に全力を傾注せざるべからず。」と記した。
①「南京入城の大壮挙を完成し、帰来する気分は格別なり」とあり、南京攻略に関して引け目に感じることは一切ない晴れ切った心情であることが分かる。
②「之より謀略その他の善後措置に全力を傾注せざるべからず。」とあるように、松井大将の心中では既に戦いよりも、反蒋・反共の有力者を糾合し親日政権を樹立し、大亜細亜主義に基づく新しい体制を創るための決意と希望に燃えていた。
【小結】
 南京攻略を大成功と考え、晴れ晴れとした気持ちで次の段階へまい進しようとする松井大将に、南京大虐殺の影など微塵もない。実際上海に戻ってからは連日、英米仏伊の武官・外交官・ジャーナリストと会見をくり返し、日本の正しさを堂々と訴え続け、彼等からも非難よりもむしろ好感を伴った支持を取り付けていた。
但しドイツの代表だけは日本に対して厳しい態度を示した。

結 論
以上見てきたことで、南京攻略時において、松井大将自身やその周囲で、南京大虐殺などは全く見られず話題にも上らなかった事が確認された。
ところが不思議なことに、南京陥落の数日後には早くも、現場を遠く離れたアメリカの一部の新聞などに南京陥落後の日本軍による大虐殺が報道されてもいた。
南京大虐殺の嘘は何故作られたかについては、改めて詳説するが、日誌の記述からその理由が窺える部分があるので、以下簡略に述べておく。
蒋介石は元々は日本軍攻撃に乗り気ではなかったが、国内における多年の共産党による情報戦の圧力に屈したことと、ドイツ、ソ連、米国から多大な武器援助、軍事顧問団による戦争指揮を受け、数十倍の圧倒的な兵力で充分に準備したことで必勝を確信し、軍人としての戦勝欲にかられたので、上海の日本海軍陸戦隊を急襲した。ところが結果は、少数で速成の日本軍を上海から追い出すどころか逆に多数で準備万端の自分たちが上海を追い出され、しかも首都まで明け渡してしまうという大敗北を喫し、日本軍が強さと国民党軍の弱さが満天下に知られたことで、蒋介石の権威は大きく失墜し、強烈な批判にさらされた。追い詰められた蒋介石政府が、なりふり構わず、藁をもつかむ思いで、嘘でも何でも日本の悪を強調するプロパガンダを世界中に宣伝して、批判の矛先を日本へ向けさせ、情報戦、プロパガンダ戦へ戦場を移行・拡大させたことを意味していたのが理由の一つである。
スポンサーサイト

 『松井石根大将の陣中日誌』精読1 大将の支那事変での目標は、中国において「欧米ソ連の影響を受けない支那人による支那のための反蒋政府樹立」「反日・排日の根源である共産勢力の排除」することだった

ありもしない南京大虐殺の責任により、アメリカの不法な報復である東京裁判で死刑となった松井石根大将の汚名を晴らすことは、我々後に続く日本人の責務だと思います。
 『松井石根大将の陣中日誌』を精読すると、大将が支那事変での目標としていたのが、中国において「欧米ソ連の影響を受けない支那人による支那のための反蒋政府樹立」「反日・排日の根源である共産勢力の排除」することであり、欧米の在支那大使、将官、新聞記者に対して懇切丁寧にそのことを説明し理解も得ていたことが分かります。
 ※注目すべきことは、南京占領後一カ月過ぎた上海で何度も欧米の将官、ジャーナリストと会談を繰り返しているのに、当時の南京の状況の情報に詳しいはずの彼等から「南京虐殺」に関する抗議どころか質問すらなく、概ね松井大将の意向が好意的に受け入れられていることです。
 日記では上海占領完了後すぐに以下のように記します。 
●「11月21日:此日予は原田少将をして共同租界及仏国租界当局に対し、右の要旨の要求をなさしむ。1.軍は租界当局が租界内に於ける排日、抗日及共産主義の諸策動に対し充分なる取り締まりを行ふ事を要求す。」
 
 また、南京占領後一週間弱で上海に帰り、欧米の在支将官、新聞記者と会談を重ねたことが以下のように記されています。
●「12月23日:2週間ぶりに帰来す。上海情勢漸次平静に向ひつつあるも、南市の処分未だ終らず、滬西(こせい)方面にある外国人の居住も一応は許可せるも、支那人の出入り自由ならざる為め実行意の如くならず。
 其後の謀略に付原田少将、楠本大佐を招致して状況を聞く。是亦多少共進展の模様にて、上海在住実業家を網羅する和平、救民運動は漸く其緒に就かんとしつつあるも、今だ十分の纏りを見ず、一層の努力を要するものと思はる。
 思ふに先日来のパネー号事件、蕪湖事件等英米の抗議に対する東西の衝撃が兎に角に上海支那人中にも鋭敏に影響するものあら乎。
 此日南京占領後の我方の態度方針を説明する為め外人記者団と会見す。最初南京占領と其国際的影響を知るため紐育タイムズのアベンド、倫敦タイムズのフレーザーを招致し、然る後上海の各国通信員と会見す。質問は主として、首都陥落後の日本の方針及パネー号に対する善後処置なり。
 杭州占領(欄外)
 第10軍は此日杭州を占領す。最早何程の抵抗もなく、第114、第101師団により易く占領せられたるは欣ぶべし。尚残留外国人及権益に関して問題もなく無事なりしは幸なり。今後風紀問題等に故障なからんことを只管(ひたすら)祈るのみ。
 銭塘江対岸に対する作戦は今後の情勢に依り決することとし、暫く粛山、餘杭附近を消極的に占領せしむるに止む。
12月24日:米長官訪問(欄外)
 朝11時、米国海軍長官ヤーネル提督を訪問す。蓋し曩に(さきに)英仏等の長官には面接の機会ありたるも、米長官には未だ其機を得ず。偶々パネー号事件もあり、一応訪問し置くを里とすると認めたるに依る。
 米長官以下能く接待し、態度可なり。上海問題に関して豫て(かねて)の注文を出したるも大体能く我軍の態度に信頼を置くものの如し、パネー号事件に関しては予より遺憾の意を述べ、又犠牲兵に対し弔辞を述べたるに誠意能く之を容れたり。
 要するに米海軍は我等に対し以何等毫も感情的悪感なきものと認めたり。尚彼は特に予に写真を贈りたり。
 帰途大使館を訪ひ、大使、総領事等に会ひ上海方面一般の情勢を聞く。別に大したことなきに依り、近々上海附近を一般外人、支那人に開放すべき事を申合す。尚税関問題等に就いては、現下の英・米抗議問題片付きたる後、更に強硬に我の最初の主張を貫徹すること利なりと考へ、右様申入置きたり。
12月25日: 米長官来訪(欄外)
朝米国ヤーネル提督以下多数幕僚、マリン司令官等を伴ひ答礼に来たる。予も誠意之を遇し、日米両国の太平洋の平和に協力すべきことを述べ、尚上海将来の治安維持につきては列国の協力を必要とすることを語りたるに、彼もまた之に賛成し、尚仏国租界間に於ける排日分子の取り締まりに付ては、先任司令官の立場を以て彼より佛国側に所要の序言ありたき旨述べた事に、彼は直ちにこれを承認せり。
此(れ)にて此日は毫もパネー号事件其他時局問題に直接觸るる事なく、頗る晴蕩(せいとう)の気分にて引揚げたり。
佛国海軍の招待(欄外)
 午後仏国旗艦ピッチャー号上に於ける仏提督の午餐会に出席す。仏国大使館始め例のジャキノウ牧師等迠(迄)多数列席し頗る晴蕩たる気分の会食なり。如才なき仏提督能く談じ切に親和の情に務む。予も之に応じて応酬し、大使、総領事に対し成るべく速に且つ完全に仏租界内の排日分子の清掃を要求せるに、彼等は努めて之に当たるべきも、何分避難民の数多く、其取締に困却しある旨を述べたり。彼等亦相応誠意なきに非ざるも仏国■と事なれば、到底其完全を望むべからざるは勿論なり。聞く同提督は26日出発、海防(ハイホン)に向ふ由。」

中華門の城内側

中華門1
城外側からだけでなく、城内側から見ても城壁上の出来事は下からは見えないと思いますが。

城内側の中華門

中華門1
城外側からだけでなく、城内側も下からは見えないと思いますが。

南京の中華門の写真です。

中華門2
南京の中華門の写真ですが、これで城壁上の銃殺の風景が殺される前に笑っているだとかまで下から見えると思いますか?
プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる