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第5回 興亜観音で本当の歴史を学ぶ会講演 「松井石根大将と興亜観音」

松井石根大将と興亜観音 
溝口墨道  於興亜観音 2019年10月20日
始めに
本日は、松井石根大将と興亜観音という題でお話させていただきます。始めに二点、申し上げさせていただきます。
●「ある人が、先の大戦への誤った理解を正し、松井大将の事跡を正当に評価することと、平和を追求する仏教の教義は、矛盾するから「興亜観音」の存在自体が矛盾し成立しない。」と主張したことがあるが、それは間違っているとはっきり申し上げさせていただきます。
その考えが、仏教を現在の所謂、実在する寺による日本的な「仏教」で理解して、本来の仏教を知らないことと、松井石根大将の本当の人生、思想、生き方を知らないことに基いているからです。
「仏教」も「松井石根大将の思想」もそのように浅薄なものでは決してありません。
●又、私は、何か一つの宗教、宗派の独善的な素晴らしさを述べようとするのではありません。私は伝統も新興も宗教の良否は、実践者の目的㊬、人柄によると考えています。

●人類は数百万年前に、アフリカで生まれ、急激に変化し、勿論それは百数十億年前の宇宙誕生から続く出来事の連続上にすぎませんが、アフリカを出た人類は不思議な事に2500年前位に一度、宗教的・哲学的な創造の高調期を迎えました。
ギリシア、インド、中国でほぼ同時に哲学・宗教が深化、発展しました。
※日本は一万年以上前から、それらとは別の価値観を持つ独自の文明、思想を築いていたことに注意しなければなりません。
●仏教は、「生老病死」の四苦から逃れるためには、「我」に拘ることから解放されることが必要であると繰り返し主張します。
その根拠は、興亜観音でよく読経される「妙法蓮華教如来寿量品第十六(如来の寿命の長さ)」に吾々と環境の本質は、「生まれず、死なず、変化せず、生ぜず、流転せず、完成せず、真実でもなければ、真実でないものでもなく、存在するものでもなければ存在しないものでもなく、このようなものでもなければ別のものでもなく、偽りでもなければ偽りでないものでもなく、別のものでもなければ、そのようなものでもない、」と説かれているのが、仏教の根本の考えなのです。
そこから全てが展開しています。
ですから、時間空間を超越し、従って生死も超越しているのです。
それを理解しなければ、松井石根大将の興亜観音建立の意義は分からないのです。

宗教はアヘンではない
マルクスは、25歳の時の論文「ヘーゲル法哲学批判・序説」で、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書きました。
マルクスの考えは間違っています。正しくは、必ず病気となり、老い、死ななければならない過酷な現実、普段の生活でも他者と自分の利外の矛盾の相克等々、に対処し生を永らえ生活するため。人間の精神には元々、アヘン的な作用、効能が内包されている。
 それが無いと、全ての人間は、直ちに自殺しなえればならなくなります。
人間は本能として、苦悩を忘れ何があっても自己肯定できる作用を持っています。
問題は、ある宗教や哲学・思想(共産主義等)が、その人間が本来持つ自己肯定の本能を、特定の方の伸ばそうとしたり、それを自己独善、偽善の精神獲得に安住することにあります。

法華経
『法華経』は大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教初期に成立した経典で、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。
白い蓮の花は、泥の中に生まれても、泥に染まらず、清浄な花を咲かせる。
名称:『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意の漢訳での総称であり、梵語(サンスクリット)の意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たって「白」が省略され、鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い。
漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。
概説
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている。現在、日本で広く用いられている天台大師の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の天台宗や法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。
また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。
迹門
前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。
さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。 また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。
本門
後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。すなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。その寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。
説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導く法として上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。
妙法蓮華経二十八品一覧
前半14品(迹門)
第1:序品、第2:方便品、第3:譬喩品、第4:信解品、第5:薬草喩品、第6:授記品、第7:化城喩品、第8:五百弟子受記品、第9:授学無学人記品、第10:法師品、第11:見宝塔品、第12:提婆達多品、第13:勧持品、第14:安楽行品
後半14品(本門)
第15:従地湧出品、第16:如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)、第17:分別功徳品、第18:随喜功徳品、第19:法師功徳品、第20:常不軽菩薩品、第21:如来神力品、第22:嘱累品、第23:薬王菩薩本事品、第24:妙音菩薩品、第25:観世音菩薩普門品(観音経)、第26:陀羅尼品、第27:妙荘厳王本事品、第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)
法華経では、釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則して、法華経の各品で教えを説いたものでを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)という。
三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)、長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)、三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)、化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)、衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)、髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)、良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)
『法華経』の成立時期
代表的な説では、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立したとする。第一類の韻文は紀元前1世紀ころに形成、紀元前後に文章化され、散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立したとした。
近年、「序品〜如来神力品が同時成立した」「27品同時成立説」が提出され、成立年代特定の問題は『振り出しにもどった』が現今の研究の状況だです。
中村元は、(法華経に含まれる)《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。また、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならないと述べた。
法華経の流布
日本に伝わる前、先ず、インドに於いて広範に流布していたためサンスクリット本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。チベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語(諺文)訳などがある。これらによって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読謡することを勧めている。中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。

日本での法華経の流布
『法華義疏』
『平家納経』観普賢経見返し 長寛2年(1164年)
日本では正倉院に法華経の断簡が存在する。606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)
615年には聖徳太子は法華経の注釈書『法華義疏』を著した (「三経義疏」参照)。
聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。
聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。
最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは
天台宗、日蓮宗系では『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする「法華三部経」としている。
日本では、護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。
特に、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として多くの宗派に普及している。
また日蓮宗では、方便品第二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一をまとめて日蓮宗三品経と呼ぶ。
皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。
鎌倉新仏教でも、法華経は重要な役割を果たし、良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。法然や親鸞は、比叡山で万人成仏を説く法華経を学んだのち、持戒や難行を必要としない称名念仏を万人成仏の具体的な手段として見出した。
曹洞宗の祖師である道元は、坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めた。臨終に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。
日蓮は「南無妙法蓮華経」を唱え、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来るという教えを説き、法華宗各派の祖となった。
それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行わたが、日蓮教学の法華宗は、南無妙法蓮華経と唱えることを正行とした所に特色がある。
近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉された。加藤清正は法華経を納経している。江戸期の大名も江戸城下に寄進し法華・日蓮宗系の菩提寺が多く建築され、紀伊徳川家や加藤清正らにより池上本門寺の寄進改築も進んだ。特に武家の妻女・子女らには変成男子せずとも女人成仏ができると説いた日蓮の教えに感化され勧んで信奉するものが多かった。
近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた。田中智学の国柱会に入会した宮沢賢治、高山樗牛、妹尾義郎、北一輝、石原莞爾、創価学会を結成した牧口常三郎、戸田城聖らがよく知られる。
日本の伝統教団では、法華経をはじめ般若経、大般涅槃経など後世の成立とされる大乗経典は釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承発展したものとして「釈迦の教義」として認め、中国・台湾、インド・ネパール、チベット・ブータン、モンゴル・ブリヤート・トゥバ・カルムイク等、他の大乗仏教圏諸国の間ではまったく釈尊の真説と認識され、文献学は信者ではないものによる誹謗とみなしほぼ黙殺し、問題に全くなっていない。
漢訳一覧
「法華部 (大正蔵)」、『妙法蓮華経』 八巻 鳩摩羅什訳 (大正蔵262)、『正法華経』 十巻 竺法護訳 (大正蔵263)、『添品妙法蓮華経』 七巻 闍那崛多・笈多訳 (大正蔵264)、『薩曇分陀利経』 一巻 訳者不明 (大正蔵265)、『仏説阿惟越致遮経』 三巻 竺法護訳 (大正蔵265)、『不退転法輪経』 四巻 訳者不明 (大正蔵267)、『仏説広博厳浄不退転輪経』 六巻 智厳訳 (大正蔵268)、『仏説法華三昧経』 一巻 智厳訳 (大正蔵269)、『大法鼓経』 二巻 求那跋陀羅訳 (大正蔵270)、『仏説菩薩行方便境界神通変化経』 三巻 求那跋陀羅訳 (大正蔵271)、『大薩遮尼乾子所説経』 十巻 菩提留支訳 (大正蔵272)、『金剛三昧経』 一巻 訳者不明 (大正蔵273)、『仏説済諸方等学経』 一巻 竺法護訳 (大正蔵274)、『大乗方広総持経』 一巻 毘尼多流支訳 (大正蔵275)、『無量義経』 一巻 曇摩伽陀耶舎訳 (大正蔵276)、『仏説観普賢菩薩行法経』 1巻 曇無蜜多訳 (大正蔵277)
法華経第二十四章 「あらゆる方角に顔を向けたほとけ」
妙法蓮華教観世音菩薩普門品第二十五
そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アクシャ・マティ(無尽意)は座席から立ち上がって、上衣を一方の肩だけにかけ、右膝をついて、世尊に向かって合掌し、世尊にこのように語った。
 「世尊よ、いかなる理由で偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラ(観世音)は、アヴァローキテーシュヴァラと呼ばれるのですか。」
 この言葉を聴いて、世尊は偉大な志を持つ菩提行者アクシャ・マティに次のように語った。「この世において、幾千万憶という人間がどのような苦悩を嘗めていようと、もしかれらが偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を聴くならば、かれらはすべてその苦悩の集積から解き放たれよう。
また、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を心にとどめている人々は、たとえ大火の中に落ち込んでも、かれらはすべて偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの威光によって、この大火から救い出されよう。
 また、人が河に流されることがあっても、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを大声で呼ぶならば、どこの河川においてでも、すぐ浅瀬が見つけられよう。
 また、幾千万億という人々が金銀や宝石・真珠・金剛石・瑠璃・硨磲(シャコ・シャコガイ)・瑪瑙・珊瑚・翡翠・琥珀・赤真珠などを船に積んで乗り込み、大海の只中を航行しているとき、季節風に吹き流されてラークシャシー(羅刹女)の島に漂着したとしても、かれらの中にただ一人でも偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを大声で呼ぶならば、かれらすべてはそのラークシャシーの島から逃れることができよう。
 実に、この理由で、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラはアヴァローキテーシュヴァラといわれるのだ。
 もし、ある人が処刑されようとしたときに、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを大声で呼ぶならば、そのとき、処刑人たちの刀は折れ砕けよう。
また、もしこの三千大千世界にヤクシャやラークシャサどもが充満することがあっても、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を聞けば、かれら凶悪な心の持主も、我々を悪意のまなざしで見ることはできないであろう。
 また、罪がある場合にせよ罪がない場合にせよ、もし誰かが木製あるいは鉄製の足枷とか係蹄(わな)とか鎖とかで繋がれることがあっても、かの偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を聞けば、直ちに足枷や係蹄(わな)や鎖などは解けてしまうであろう。
 偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの威光は、実にこのようなのだ。
 もし、良家の息子よ、この三千大千世界に悪漢とか敵とか盗賊とか武器を手にもつ輩が充ち溢れている場合、ひとりの隊商長が隊商の大部隊を引率して、評価できないほどに高価な貴重な宝物をもって旅行するとしよう。彼らが旅行している途中で、武器を携えた盗賊や悪漢や敵どもを見たとしよう。そして、盗賊などを見て恐れおののき、慌てふためいて、自分たちがどうしようもないことを知ったとしよう。そして、隊商長が隊商の各人に、
 『諸君、恐れることはない、恐れることはない。われわれに安心を授けられる偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを、われわれは声をそろえて一緒に呼ぼう。そうすれば、諸君はたちどころに盗賊や敵どもの恐怖から免れることができよう。』
と言うとしよう。
 そこで、隊商の全員が声を揃えて偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを呼んだとしよう。
『われらに安心を授けたまう偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを、崇め奉る、崇め奉る』と。
 名を唱えるやいなや、かの隊商はあらゆる恐怖から完全に解放されよう、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの威光は、実にこのようなのだ。 愛欲に耽る者たちでも、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬うとき、愛欲の心はなくなるのだ。
 憎悪に狂う者たちでも、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬うとき、憎悪の心は消えるのだ。
 愚かなふるまいをする輩でも、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬うとき、愚かさは見られないのだ。
 このように、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは偉大な神通力の持ち主なのだ。
 また、息子をほしがる女性が偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬うときは、容姿端麗で上品で優雅な息子が生まれるのだ。しかも、この息子は息子としての美点を具え、多くの人々に愛され、人の心を惹き、しかも善根を植えた息子なのだ。
 また、娘を望む女性には、容姿うるわしく上品で優雅な娘が生まれる。しかも、この娘は蓮華さながらの、この上なく清らかな容色をもち、娘としての美点を具え、多くの人々に愛され、人の心を惹き、しかも善根を植えた娘である。
 偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの威光は、実にこのようである。
 また、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬う人々、またその名を心にとどめる人々は、実りの多い果報を得るのだ。
 そして、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラを崇め敬い、その名を心にとどめる人も、また六十二のガンジス河の砂の数に等しい尊き仏たちを崇め敬い、その名を心にとどめようとする人も、またどれだけの尊き仏たちが住んでいられようとも、これらの仏たちに衣服とか鉢とか寝具とか座席とか医薬品などの生活必需品を供養しようとする人も、実りの多い果報を得よう。
 この場合、このように奇特な良家の子女は、そのことによって、どれほどの福徳を集積することができると思うか。」
 この言葉を聴いて、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティが世尊に、
 「世尊よ、実に多いのです。仏よ、実に多いのです。かの良家の子女は、そのことによって、実に多くの福徳を集積するでありましょう。」
 と言った。世尊が語った。
 「良家の息子よ、そのように多くの尊き仏たちを崇め敬うて得た福徳の蓄積と、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラにただ一度だけ崇め敬う行為をし、その名を心にとどめる場合に得られる福徳の蓄積とは、両者いずれも同じで増減なく、また優劣はないであろう。
 そして、六十二のガンジス河の砂の数に等しい尊き仏たちを崇め敬い、その名を心にとどめる人と、この両者を得た福徳の量は、幾千万億劫のあいだ努力しても、それを滅ぼし去ることは容易でない。
 このように、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの名を心にとどめることによって得られる福徳は、測り知られぬほどに多いのだ。」
 そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティは世尊にこのように語った。
 「世尊よ、何故に偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは、このサハー世界を歩きまわられるのですか。
 何故に人間どもに教えを説かれるのですか。
 また、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの巧妙な手段は、どれほどの範囲に及ぶのでしょうか。」
 この言葉を聴いて、世尊は偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティにこのように語った。
 「偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラが仏の姿で人々に教えを説く世界もあれば、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラが菩提行者の姿で人々に教えを説く世界もある。
 偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは、ある人々には独覚の姿で教えを説き、またある人々には声聞の姿で教えを説く。
 ある人々にはブラフマン(梵天)の姿で教えを説き、シャクラ(帝釈)の姿で教えを説くこともある。
 また、ある人にはガンダルヴァ(乾闥婆)の姿で教えを説き、ヤクシャ(夜叉)によって導きえられる者たちには、ヤクシャの姿で教えを説き、イーシュヴァラ(自在天)によって導きえられる者たちには、イーシュヴァラの姿で教えを説く。
 マヘ―シュヴァラ(大自在天)によって導きえられる者たちには、マヘーシュヴァラの姿で教えを説く。
 転輪聖王によって導きえられる者たちには、転輪聖王の姿で教えを説く。
ピシャーチャによって導きえられる者たちには、ピシャーチャの姿で教えを説く。
ヴァイシュラヴァナ(毘沙門)によって導きえられる者たちには、ヴァイシュラヴァナの姿で教えを説く。
将軍によって導きえられる者たちには、将軍の姿で教えを説く。
婆羅門によって導きえられる者たちには、婆羅門の姿で教えを説く。
ヴァジャラ・パーニ(執金剛神)によって導きえられる者たちには、ヴァジャラ・パーニの姿で教えを説く。
このように、良家の息子よ、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは考えられないほどの能力を具えているのだ。従って、今こそ、汝らは、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラに供養せよ。
 かの偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは恐れおののく者たちを安心させるのだ。 
 この理由で、彼はこのサハー世界においてアバヤン・ダダ(「安心を授ける者」の意)と言われる。」
 そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティが世尊にこのように言った。
 「世尊、われわれは偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラに心から帰依して、供養の贈り物を進上いたします。」
 世尊が言った。
 「良家の息子よ、今こそ好機であると、汝が考えるならば、そうするがよい。」
 そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティは幾百千金の値のある真珠の首飾りを自分の頸からはずして、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラに供養の進物として贈った。
 「勝れた偉丈夫よ、わたくしが親しく捧げ奉るこの供養の進物を受納されよ。」
 しかし、彼はそれを受納しなかった。
 そこで、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティが偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラにこのように語った。
 「良家の息子よ、われわれに憐れみを垂れたもうて、この真珠の頸飾りを受納したまえ。」
 そこで、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティに憐れみを垂れ、また四種の会衆ならびに天・竜・ヤクシャなどの八部衆や人間・鬼霊たちを憐れんで、偉大な志を持つ菩提行者アクシャヤ・マティから親しく真珠の頸飾りを受け取った。
 そして、それをふたつに分けて、その一つを尊きシャーキヤ・ムニに贈り、他の一つを完全な「さとり」に到達した阿羅漢の尊きプラプート・ラトナ(多宝)如来の宝玉造りの塔に懸けた。
このような奇蹟を示しながら、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラは、このサハー世界を歩きまわった。」
 そのとき、世尊は次の詩頌を語った。
アクシャヤ・マティが余に『華麗な旗の持ち主よ、いかなる訳でこの仏の息子はアヴァローキテーシュヴァラと言われるのか』とその意義と理由を尋ねた。
その質問の訳を察知して、請願の大海であるアヴァローキテーシュヴァラについて、華麗な旗の持ち主である余は、アクシャヤ・マティに『アヴァローキテーシュヴァラの修行を聴け』と語った。
幾百劫という考えられぬほどに長い間、幾千万億という多くの仏のもとで、彼が請願を清浄ならしめた次第を、わがとき示すところから聴け。
その間、その名を聴き、彼に見え、さらに彼を念ずるとき、この世において、彼は人間たちのすべての苦悩と生活の煩わしさを消滅させて、失敗することはない。
悪意のある者が誰かを殺そうとして火坑に落とし込んだとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、水をかけられたように、火は消えよう。
海の難所や竜・マカラなどの怪物の住処に落ちこんだとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、海中に沈むことは決してない。
悪意を抱く者が誰かを殺そうとして、メール山の断崖から突き落としたとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、太陽となって虚空にとどまる。
殺そうとして、誰かが金剛づくりの山の大石を頭に投げつけたとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、一本の毛髪さえ害う(そこなう)ことはない。
剣を手にして危害を加えようとする敵の集団に取り囲まれたとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、即座にかれらは慈しみ深くなろう。
刑吏の手に委ねられて、まさに処刑されようとしても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、そのとき剣はばらばらに砕けよう。
木製あるいは鉄製の足枷によって、また縄で縛られることがあっても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、縄目は忽ちに解けよう。
呪文・まじない・薬草・人間に憑く鬼霊・死体に憑く鬼など、人間の身体を滅ぼすものは、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、それを用いた当人に還ってゆこう。
われらの体力をうばうヤクシャや竜やアスラ、人間に憑く鬼霊やラークシャサ(羅刹)どもに囲まれていようとも、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、一本の毛髪さえ害うことはない。
鋭い歯と爪をもつ恐ろしい猛獣に囲まれることがあっても、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、それらは忽ちに諸方に逃げ去ろう。
吐く火焔の物凄く恐ろしく、まなざしに毒をもつ蛇どもに囲まれようと、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、そのとき、かれらは忽ちに無毒となる。
雲から稲妻きらめき雨を降らせながら、激しい雷雨が襲ってこようと、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、雷雨はその瞬間に忽ちに静まる。
幾百の苦悩に打ちひしがれ、多くの苦悩にさいなまれた人間を見て、勝れた智慧の力をもつ彼は察知して、神もともに住む世界において救済者となる。
神通力の蘊奥を極め、広大な智慧とその発揮の手段に長じた彼は、この世の十方の至る所に姿を現し、あらゆる国土において、のこらず、その姿が見られる。
難儀と困窮の恐怖につつまれて、地獄・畜生界・ヤマの世界にいる人間たちにとって、生誕・老衰・病気の苦しみは次第に消滅しよう。
そのとき、アクシャヤ・マティは喜び満足した心で次の詩頌を語った。
輝かしい眼の持主よ、慈眼の持主よ、理智と智慧の顕著な眼の持主よ。憐れみの眼をもち、清浄な眼の持主よ。美しい顔と美しい眼をもつ愛らしい者よ。
汚れなく濁りなき輝きある者よ。暗さのない智慧の持主よ、太陽の輝きをもつ者よ。吹き消されることのない燈火の輝きある者よ、汝は照り輝いて、この世を照らす。憐れみの徳をもち、慈しみを轟かせ、優れた徳と慈悲の心をもつ、大きな雲のごとき者よ。人間どもの煩悩の火を鎮め、汝は甘露である教えの雨を降らす。争いの際に、また論争・格闘の折に、戦場に赴いて大きな危険にさらされたとき、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、凶悪な敵軍は直ちに退散しよう。
雷鳴や太鼓のように轟き、大海のように轟きわたる彼は、ブラフマンのごとき好き音声をもつ。アヴァローキテーシュヴァラは音楽の奥義を極めており、常に心に念ずべき者である。清浄な存在であるアヴァローキテーシュヴァラを、汝は心に念ぜよ。心に念ぜよ。ゆめ疑うてはならぬ。死・不運・苦難に際して、彼は救済者であり庇護者であり、最後の拠りどころである。すべての徳を完成させ、すべての人間に慈悲の眼をもち、徳の化身であり徳の大海であるアヴァローキテーシュヴァラを礼拝せよ。
彼は世の人々に憐れみを垂れ、未来において仏となるであろう。あらゆる苦悩と恐怖と憂いを滅すアヴァローキテーシュヴァラを、私は礼拝する。
ローケーシュヴァラ・ラージャ(世自在王)を指導者とした僧のダルマ―カラ(法蔵)は、世間から供養されて、幾百劫という多年のあいだ修行して、汚れない最上の「さとり」に到達してアミターバ(無量光)如来となった。アヴァローキテーシュヴァラはアミターバ仏の右側あるいは左側に立ち、かの仏を扇ぎつつ、幻にひとしい一切の国土において、仏に香を供養した。
西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカーヴァティー(極楽)世界がある。そこに、いまアミターバ仏は人間の御者として住む。
そして、そこには女性は生まれることなく、性交の慣習は全くない。汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の胎内に座る。
かのアミターバ仏は、汚れなく心地よい蓮華の胎内にて、獅子座に腰をおろして、シャーラ王のように輝く。
彼はまたこの世の指導者として三界に匹敵する者はない。私はかの仏を讃嘆して、『速やかに福徳を積んで汝のように最も優れた人間(仏)となりたい』と祈念する。
 そのとき、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラについての経説の一章を聴き、偉大な志を持つ菩提行者アヴァローキテーシュヴァラの奇蹟を教示する『サマンタ・ムカ』(あらゆる方角に顔を向けたほとけ)というアヴァローキテーシュヴァラの変幻自在な奇蹟を記した章を知る衆生は、少なからず善根を具えた者となるであろう。」 世尊がこの「サマンタ・ムカ」の章を説いている間に、そこに集まっていた八万四千人の会衆は、比べるもののない、この上なく完全な「さとり」に到達したいという心を起こした。
以上で、吉祥なる『法華経』という経説における、「あらゆる方角に顔を向けたほとけ」 というアヴァローキテーシュヴァラの奇蹟を説いた第二十四章は終わる。
法華宗陣門流
法華宗陣門流は、日蓮を宗祖(高祖)とし、日陣を派祖(門祖)とする、仏教の日蓮門下の一派である。本尊は三宝尊である。法華経の題目(南無妙法蓮華経)を唱えること(唱題)を正行とする。 日陣(1339年~1414年)陣門流では門祖と呼ぶ。この門流では、「南無日陣尊聖人(なむにちじんそんしょうにん)」と唱えることがある。日蓮(宗祖)から日朗(総本山越後国三条長久山本成寺初祖)、日印(同寺開山)、日静(上杉氏<藤原北家系>出身、後に除歴)の法脈である。
寺院総本山長久山本成寺(新潟県三条市)(越後国)、別院:京別院 光了山本禅寺(京都府京都市)(山城国)(洛中法華21ヶ寺)、東海別院 常霊山本興寺(静岡県湖西市)(遠江国)、東京別院 徳栄山本妙寺(東京都豊島区)(武蔵国)、北陸別院 長松山本法寺(富山県富山市)(越中国)
霊跡別院 俎岩山蓮着寺(静岡県伊東市)(伊豆国)
陣門流では、三宝の第一を、仏は久遠実成本仏釈迦牟尼世尊とし、法は正法ととらえている妙法蓮華経(法華経)とし、僧は日蓮大聖人(陣門流の使用する日蓮の呼び方)とする。教義は釈迦本仏論で勝劣派である。
日陣は本圀寺(京都市)日静を師として修学し、日静より遷化に先立ち越後国三条本成寺(新潟県三条市)を与えられ、日陣門流を興す。応永13年(1406年)、日陣は京での布教のため、本禅寺を創建する。
1253年(建長5年)に宗祖日蓮により立宗。
1297年(永仁5年)に日印は山吉定明・長久父子の協力を得て越後国三条長久山本成寺(初祖日朗<六老僧>の四長本山)(新潟県三条市)を建立する。
1318年(文保2年)~1319年(元応元年)に日印は高齢の日朗に代わり、征夷大将軍が宮将軍の守邦親王の世の鎌倉幕府の執権・得宗の北条高時の前で他の諸宗の僧を論破(いわゆる鎌倉殿中問答)(弟子の日静が書き留める。)し、日蓮門下の宗門の危機を救う。
1941年(昭和16年)に宗教団体法により、法華宗と本門法華宗と本妙法華宗が合同し、法華宗と公称する。
1951年(昭和26年)に法華宗から独立し、法華宗陣門流と公称する。
松井石根大将による興亜観音の建立
昭和15年2月 24日
★興亜観音の開眼供養法会は、昭和 15年 2月 24日 、願主松井石根大将、導師芝増上寺大島貫首をもつて挙行された。
「興亞觀音建立縁起」には次のように記されている。 支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。実に千歳の悲惨事なり。然りと雖、是所謂 東亜民族救済の聖戦たり。惟ふに比の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇、慈悲の行、真に興亜の礎たらんとする意に出でたるものなり。予大命を拝して江南の野に転 戦し、亡ふ所の生霊算なし。洵に痛惜の至りに堪へず。方に此等の霊を弔ふ為に、彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を獲り、施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、 此の功徳を以つて永く怨親平等に回向し、諸人と倶に彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る。 因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心な協力を感謝す。 紀元二千六百年二月 願主 陸軍大将 松井石根
2月 25日
★『朝日新聞』静岡版昭和 15年 2月 25日 「"冥福を祈つて"願主松井大将は語る」には、「興亜観音開眼式の二十四日朝、松井大将は牧少将を通じて観音建設の意向を次の如く語つた」として、
興亜の大光明を仰ぎ度い一心からこの大業のために尊い犠牲となつた皇軍将士とこれも 同じ大業のためたふれた支那の兵士の霊を併せて弔ひ度いのが自分の念願で皇軍将士は 靖国の神と祀られるのであるが皇道精神から見れば自分が観音像を建ててその冥福を祈 る気持もそれに合致してゐると信じてゐる、本籍迄熱海へ移した自分はここで幾多の英霊を慰めながら余生を送り度いと思ふ
昭和16年6月25日
★『読売新聞』昭和16年6月25日「汪氏へ興亜観音仏一けふ松井大将が沼津駅頭で一」という記事には、6月 25日 静岡県沼津駅で、松井が南京国民政府汪兆銘主席に約8寸の興亜観音像を贈ることが記されている。贈られる観音像は、熱海の興亜観音像を型取つた清風の製作によるものであった。贈ることになった理由について は、 松井石根大将は汪主席とは第二次支那革命以来すでに廿余年の知己で廿三日夜帝国ホテルで催された江氏歓迎晩餐会に出席した時興亜の大道を語り合つた際、談たまたま興亜観音に及び恩讐を超越して日華両勇士の霊を祈る大慈悲心に汪主席は感激、松井大将から贈ることになつたものであるとされている。
6月17日
★東亜新秩序建設のために6月17日上京した汪兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋右外相らと会談し、帰路特急つばめ号の停車した沼津駅で松井から興亜観音のミニチュアを贈られた。 これも清風作で、ミニチュア興亜観音は国内外に数点贈られたようである。
★興亜観音は熱海のものが著名であるが、それだけではなかった。新聞記事で興亜観音につい て報道されるや、怨親平等思想に共鳴した僧侶が自らの寺院にも興亜観音を建立したいとの希 望を松井に申し出、松井はそれに対して快諾して、他所においても興亜観音が建立されること になった。
「 第二号」の興亜観音は二重県尾鷲市の曹洞宗寺院金剛寺境内に建立された。金剛寺 21世 の鬼頭観梁和尚は、熱海に興亜観音が建立されたことを知り、尾鷲にも建てたいと松井大将に 懇願し、認められたのであった゛。『伊勢新聞』昭和16年8月11日「興亜観音像除幕式 尾 鷲町金剛寺境内で営む」には以 下のように記されている。北牟婁郡尾鷲町金剛寺住職鬼頭氏の発起で地元有志の浄財を得て同寺境内に建立を急ぎつゝあつた『興亜観音像』は今次聖戦に幾多武勲を樹て興亜の礎石として散つた護国の忠霊を永久に慰めるべく岡崎市の名工宇野員太郎氏に依頼中のところこんど見事に彫亥を終り安置したので九日の吉日を卜し午後一時から大本山永平寺貫首高階禅師、■■臨席、松井石根大将、小笠原長生子の祝辞代読、濱地文平代議士ほか町村長関係来賓百余名を招き荘厳な除幕の式を挙行、午後二時盛会裡に終了した。式後徳川中将の時局講演が行はれた
★柴山清風以外によつて製作された興亜観音は、金剛寺の興亜観音だけである。また石仏であることも他の興亜観音とは異なっている。胸の前で両手を合わせる姿や衣文等、熱海のものと同 一になるように製作されたようである。 台座銘には以下の 「 興亜観音建立縁起」が記されている。 支那事変戦没者追悼供養の為観音大士を建立す、願くはこの功徳を以て普く怨親平等に回向し、日華両民族倶に妙智力に依倍して速やかに東亜の大光明を仰かんことを祈る、 昭和十六年七月吉日 金剛廿一世 観梁曳 「辛巳端午 怨親平等 祐民誼」
ここでも戦争で亡くなった 日中両国の戦没者の供養として 「怨親平等」が強調され、観音菩薩の力によつて大東亜建設がなされるよう祈願している。「怨親平等」と揮豪した祐民誼は、民国29年(1940)3月、南京国民政府の行政院副院長兼外交部長となり、日本との外交折衝を主に担当し、同年12月駐日大使となつた人物である。年月からして、駐日大使として日本に赴任している際に依頼されて揮皐したと思われる。
★開眼供養の際には、松井はおそらくは体調 が芳しくなかったため参列せず祝辞を寄せている。当日は、昭和13年4月10日、決死的な爆撃行の中で弾丸数十発を浴び、左腕左脚 を負傷しながらも、操縦繰にハンカチを巻き、口でくわえて基地に帰還 し、15日に亡くなった尾鷲町出身の福山米助大尉の娘洋子ちやんが除幕を行つた。そして、北牟婁郡内戦没将兵遺族ら200余名が参列し、郡内32ヶ寺の僧侶奉仕のもと、永平寺貫首高階禅師の開眼供養があり、岡町長以下来賓の祝辞、武運長久祈願ののち、日支両軍戦歿将兵英霊の追悼が行われるなど、盛大な儀式であつた
9月 11日
★『朝日新聞』東京本社版昭和 16年 9月 11日には 「英霊に献ぐる秘願 畢生の写経千巻一興亜観音に香る一女性の心血一」の記事が掲載されている。これによると、東京に住 む女性が、亡き父の三界万霊の冥福を祈る写経を引き継ぎ、英霊の供養にと般若心経一千巻の 写経をして十巻に表装し、総持寺貫首伊藤道海禅師らの題字を添えて松井に贈り、松井の手で 納められたのであった。そして、「 興亜の英霊に捧げる心清い一婦人の"写 経秘話"が 御堂に 杖ひく人々の語り草となつてゐる」と記されている。 興亜観音の造立は、戦死者を悼む多くの人々の心を動かしていった。

★ついで富山県入善町の浄土真宗養照寺に興亜観音が建立された゛ 。熱海に興亜観音が建立されたことを知った養照寺住職藤裔常倫氏は、昭和15年3月13日に興亜観音を訪れ、その際、偶然に松井の姿を拝することができ感動したことを記している。そして翌年1月11日再び参拝し、同時に松井に対して、興亜観音の分身を日本海に臨んで養照寺内に建立したい旨申し出ると、松井はll■ 諾して製作者である柴山清風を紹介された。そして松井は像下の題字となる「興亜観音」をすぐに揮豪して養照寺に送った。興亜観音建立委員長は町長の米澤元貞氏が務めて式典の準備が行われた。清風は松井からのヽ 紹介により観音像の製作に取りかかり、昭和17年1月10日、養照寺に像が到着し、昭和17年5月3日、開眼供養が行われた。
観音像の右には祐民誼によつて「怨親平等」と揮豪された石碑が建てられ、開眼供養法要には祝辞を寄せた。そしてその碑には、菊池寛が選した選した碑文が刻まれた。その文面は以下 のとおりである。
それ観世音は、衆生に無畏を施すゆゑに施無畏者の名あり、大慈大悲の心篤きを以て大悲 聖者の名あり、世界を救済するの故に救世大士とも称せられたまふ。思ふに興亜の義戦は 万邦に無畏を施すにあり。興亜の心は万民に慈悲を加ふるにあり。興亜の道は虐げられた る民族を救済するにあり。しかも観音菩薩の救済は無限にして、普く一人も漏れることな しと聴く。まことや大東亜聖戦の意義は観世音の心願を東亜に実現するにある。今養照寺 の寺域に立ちたまふ聖姿を拝する人は、何人も興亜の戦に散り行きじ人々に対し、敵味方 無差別の菩提を弔ふと共に、戦争の悲願に、恩讐一如万民共栄、施無畏の理想世界の一日 も早く建立せられんことを念願すべきであらう。 昭和十七年二月二十六日 菊池寛
★興亜観音に対して、敵味方の差別なく菩提を弔うのと同時に、観音菩薩の力によつて東亜の民 族の共栄が実現されることを祈願している。また、門前の標石には牧次郎少将の筆による 「 興 亜観音」の文字が亥Jまれた0。 牧次郎は杭州湾上陸の際の勇将と讃えられ、帰還後は知恩院 で得度し繹相園と名乗つたが、法衣姿で戦場を弔い、激戦地の霊土霊骨を将来して増上寺に安 置していたが、その一部を観音像の台座内に安置したのであった。そして、東本願寺句佛上人 の 「 栄誉無上護国の魂に風薫る」の句碑も建てられた。 開眼供養が行われた昭和 17年 5月 3日 には、松井は病気のため参加できず祝辞を寄せたが、 大谷派宗務総長信正院螢潤連枝導師のもと開眼供養法会が行われ、僧侶二十数名による勤行以 下、盛大な式となった。

●松井大将は法華宗陣門流の信者となっていたが、新潟県三条市にある法華宗総本山本成寺に赴かれ、相談した結果、 本成寺の執事を務め、何れ伊豆高原に所在する別格本山蓮着寺住職に赴任する予定であった伊丹忍尊師に「観音の周囲に様々な英霊が立ち現れる。成仏していないのではないか」と訴え、観音を受持してほしいと請願した。伊丹尊師は承諾し、韓音堂の傍に住し毎日朝晩題目を唱えると、戦没者の霊は出なくなり、現在に至っている。

★ついで奈良県桜井市蓮台寺に興亜観音が建立された②。蓮台寺 21世性誉寛樹和尚が、熱海 に興亜観音が建立されたことを知り、自らが提唱していた興亜合掌会の求めるものは興亜観音 像の建立から始まると思い立ったことによるものである。性誉寛樹は知人織田陳蔵氏が柴山清 風と旧知の由を知り、同じ仏像製作を依頼したところ、大将の命あるならば製作するとのこと だったので、松井と親交の厚い大島徹水増上寺法主狽下を介して、昭和 16年 1月 5日熱海の 松井邸を訪ね、興亜会の主旨を述べ、同じ土をにより製作した観音像を蓮台寺境内に建立した いと懇願した。松井はこれに同意して自ら発願主となり、柴山清風に高さ 2。42傷 の興亜観音 像製作を依頼したのであつた。
そして、昭和 16年 11月 3日 、 大島大僧正を導師に迎えて地鎮祭が 行われた。その地下には県下の小学 校児童による名号石、奈良安井崇徳 寺住職の発起の写経石が納められ、 基礎石には天平年間吉備真備によつ て建立されたとされる心楽寺の礎石 を四切にして使用された。また、観 音像め横には 「 興亜観音 発 願 陸 軍大将松井石根」と刻んだ標石も建 てられた。翌 17年 9月 に工事を終 え、昭和 18年 3月 27日 松井夫妻 を迎え、大島大僧正を導師として開 眼大法要が行われた。その発願文は 以下のとお りである6 支那事変は友隣本目撃ちて莫大の 生命を喪滅す。実に千載の悲惨 事なり、然 りと雖も是れ所謂東 亜民族救済の聖戦にして、其犠 牲たるや身を殺 して大慈を布 く 無畏の勇慈悲の行以て興亜の礎 たらむとするの意に因るものなり。予暴に大命を拝して江南の地に展戦し喪ふ所の英霊算 なし。拘に痛恨の情に堪えす、姦に此等英霊を弔う為彼我の戦場たりし江南地方各地の土 塊を採り来りて施無畏者慈眼視衆生の観世音菩薩の像を建立し、此功徳を以て永くゝゝ怨 親平等に回向し、諸人と共に彼の観音力を念し東亜の大光明を仰かむことを祈る。今や大 東亜の戦跡は遠く南洋の彼方に及び戦争の範囲も亦支那事変の比にあらす。糞くは亜細亜 古来の観音精神を治く大東亜の諸民族に悟了せしめて大東亜聖戦の完遂に貢献せむことを 以て発願の辞となす。 昭和十八年二月二十七日 陸軍大将 松 井石根 (花押) 当日は浄土宗総本山知恩院式衆をはじめ県下各寺院の僧侶、京都師団長代理相葉大佐、中華民 国大使代理侃学林氏、奈良県知事代理坂田聖地顕揚課技師、大福 ・香具山国民学校児童、戦病 歿軍人遺家族らが参列する盛大な法会となつた。

★興亜観音として露座に建立されたのは、熱海、尾鷲、入善、桜井の4体 であつた。興亜観音 は熱海に建立された後、それを報道で知つた人々が、「怨親平等」の思想に心を動かされ、分 身を地元にもとの思いで松井大将に懇願し、仏教界、政界、軍、地域が一体となって運動した結果であつた。そこには亡くなつた人の菩提を弔うのと同時に、「興亜」を観音に祈願し、戦争を勝利に導いてもらいたいとの意志もあつた。
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フィリピン独立を夢見、応援していた松井石根大将

フィリピン独立を夢見、応援していた松井石根大将
 戦前、松井石根大将がフィリピンの民族主義者や独立党(サクダリスタ党)のベニグノ・ラモス氏を支援したことは米国に知られていた。
 戦前既に、ピオ・デュランフィリピン国立大教授が顧問の「フィリピン大亜細亜協会(当然独立支援・本部会長松井大将)」も設立されていた。
 米国に心底恨まれたことは、東京裁判で直接関係のないフィリピン人検事に最も強烈な松井大将死刑要求をさせたことでもわかる。
 ※フィリピンの独立党関係者はほとんどが虐殺された。
 以下は公文書における記載。(※ユダヤ人居住区計画で有名な犬塚惟重海軍大佐は大亜細亜協会の理事で中核メンバーの一人)

●「比律賓独立党首領ラモス氏歓迎茶話会に関する件
(防衛省防衛研究所:海軍省-公文備考-S10-55-4869)
昭和11年4月16日(1936/04/16)
比律浜独立党首領ラモス氏歓迎茶話会
首領ラモス氏の歓迎茶話会を四月十五日正午ヨリ当協会に於て開催、中谷幹事より歓迎の挨拶 犬塚理事よりラムス氏の紹介ありて後ラムス氏より比律浜独立運動情勢につき説明あり、種々懇談を交換して三時半散会した。 当日の出席者左の如し 来賓 比島サクダリスタ党代表 ペニニオ・アール・ラモス氏、同秘書ラモン・パス・クレスポ氏、松井石根陸軍大将、犬塚惟重海軍大佐、福田良三海軍大佐、小林仁海軍大佐、加来止男海軍中佐、直井俊夫海軍少佐、竹藤峰治台湾大亜細協会理事、中谷武世法政大教授、佐藤忠雄外務省情報部第3課長」

以下は、『大亜細亜協会年報昭和9年3月』大亜細亜協会編(大亜細亜協会)昭和9年3月、『大亜細亜協会年報昭和11年4月~15年3月』大亜細亜協会編(大亜細亜協会)昭和11年4月至昭和15年3月から摘録。

●比律賓ビオ・デュラン博士歓迎会
昭和11年6月25日、京橋中央亭にて、比律賓国立大学教授ピオ・デュラン博士歓迎会を開催。松井評議員が挨拶。
P・デュラン、パグワン、松井石根、橋本、犬塚惟重、今岡十一郎、岸井寿郎、角岡知良、今牧嘉雄、福島喜三次、加来、井上靖、佐藤安之助、西田卯八、中原謹司、里屋武夫、下中彌三郎、西原矩彦
●昭和十一年度総会記念大講演会
昭和11年11月17日、総会に続き、明治神宮青年館にて大亜細亜主義講演会が開催。台湾大亜細亜協会幹事台北高商教授佐藤佐、早大教授杉森理事、満洲国大使館干静遠参事、比島国立大学ビオ・デュラン教授が講演。松井会頭挨拶。満洲国教育映画協会より提供の映画「亜細亜の暁」を鑑賞。
●比律賓ラウレル博士歓迎会
昭和12年4月19日、京橋中央亭にて、比律賓国立大学教授、前比島内務長官ラウレル博士の来朝の歓迎会を開催。松井会頭が歓迎挨拶。
ラウレル博士、松井石根、白鳥敏夫、鹿子木員信、佐藤安之助、酒井武雄、半田敏治、今岡十一郎、西田卯八、下中彌三郎、西原矩彦、中谷武世
●比島ヘラルド紙主筆M・フアロラン氏歓迎会 
昭和12年6月30日、丸の内会館にて、比律賓大亜細亜協会顧問、比島ヘラルド紙主筆モデスト・フアロラン氏の歓迎会を開催。
モデスト・フアロラン、松井石根、佐藤愛之助、犬塚惟重、稲原勝恰、江ノ沢、中谷武世
●橋本大佐外同人歓迎懇談会
昭和14年5月17日、麹町陶々亭にて、中支より帰還の橋本欣五郎大佐、比律賓大亜細亜協会顧問ピオ・デュラン氏、満洲建国大学中山優教授、比律賓大亜細亜協会望月音五郎氏、同今村栄吉氏、同浦上与一郎氏の歓迎を兼ね同人懇談会を開催。
橋本大佐が謝辞、出征感想を披歴、懇談。
橋本欣五郎、ピオ・デュラン、中山優、望月音五郎、今村栄吉、浦上与一郎、松井石根、村川堅固、加藤敬三郎、松井七夫、神田正種、松室孝良、芦沢敬策、橋本増吉、今岡十一郎、桜木俊一、福島喜三次、稲原勝恰、秋山昱禧、岩田愛之助、今牧嘉雄、神尾茂、西田卯八、高田鄰徳、多田武郎、瓜生喜三郎、今村忠助、影山知二、下中彌三郎、西原矩彦、中谷武世
●比律賓事情研究会
昭和15年1月24日、協会別室にて、来京中の木原次太郎比律賓マニラ駐在領事の歓迎の意を兼ね比律賓事情研究会を開催。
松井会頭が挨拶。木原領事が比律賓事情について報告。
木原次太郎、松井石根、菊池武夫、高木陸郎、橋本増吉、宅間重太郎、金ケ江清太郎、下中彌三郎、牧次郎、西原矩彦、中谷武世
●台湾大亜細亜協会 比島学生見学団歓迎会
昭和12年4月15日、鉄道ホテルにて、比島学生見学団歓迎会を開催。
竹藤幹事挨拶。比島側はヤナリオ氏、レーエス検事、ウンション嬢が謝辞・挨拶。余興場にて一行歓迎音楽舞踊の夕を催した。   
4月16日、比島学生見学団一行は内地見学のため出発。
●台湾大亜細亜協会 歓迎懇談会
昭和12年5月13日、鉄道ホテルにて、第五回台比水泳競技会出場の為来台した比島選手一行を迎え歓迎懇談会開催。
大沢幹事が挨拶。ナブレ・マリアノ比島代表が謝辞、種々懇談。望月音五郎比島大亜細亜協会会長が臨席。

松井石根大将のお人柄が最古の仏典に説かれる理想の聖者の姿と重なる

松井石根大将の生涯を、見るたびに、その聖者にも思える人格に感銘を受ける。
私には、最古の仏典に帰される「聖者」の姿に松井石根大将が重なってしょうがない。
所謂A級戦犯として巣鴨で松井石根大将と同室だった思想家の大川周明は松井大将を評して「語黙動静、坐臥進退、凡そ将軍のように微塵も衒気なく、而も挙措自ら節度に叶って居る人は、絶無でなくとも希有である。「何を以て君子と知るや、交情また淡の如とし」私はこの淡如という形容詞は、将軍のために出来た言葉のように思った。私はかような風格の将軍と日夜起臥を偕にする欣びを、獄中で満喫しようとは夢にも思はなかった。」と記した。(大川周明著『安楽の門』⒖頁)大川周明も松井大将にならい毎朝夕「観音経」を読誦し、「ある夜、豁然と法悦の境地に入ることができた。私は初めて、雲霧をひらいて青天に白日を仰ぐが如く、観音の光明を得た」と書いている。
 以下、最も古く釈迦の言葉を直接伝えている部分が多いと言われる『スッタニパータ(経集)』〈『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳(岩波文庫)2010年第52刷版〉の一説を引き、松井石根大将のお人柄を偲んでみたい。

(第四 八つの詩句の章 十五、武器を執ること)
聖者は誠実であれ、傲慢でなく、偽りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪な貪りと慳み(ものおしみ)とを超えよ。(941)
安らぎを心掛ける人は、眠りとものぐさとふさぎ込む心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。(942)
嘘をつくように引き込まれるな。美しいすがたに愛着を起こすな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることもなく。ふるまえ。(943)
古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。(944)
わたくしは、(索引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼び、超えがたい欲望の汚泥であるともいう。(945)
バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。彼は一切を捨て去って、「安らかになった人」と呼ばれる。(946)
世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執着を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく思いこがれることもない。(948)
過去にあったもの(煩悩)を枯渇せしめよ。未来には何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものかをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。(949)
名称と形態について、〈わがものという思い〉の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、――かれは実に世の中にあっても老いることがない。(950)
「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、――かれは(このような)〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。(951)
過酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。――—動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。(952)
動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。彼はあくせくした営みから離れて、いたる所に安穏を見る。(953)
聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、優れた者のうちにいるとも言わない。彼は安らいに帰し、慳み(ものおしみ)を離れ、取ることもなく、捨てることもない。(954)
 ――—と師は説かれた。
以上、引用した。

最後の武士、聖将松井石根が幼少期に受けた武家の薫陶

評伝 松井石根大将 その   溝口墨道 
最後の武士、聖将松井石根が幼少期に受けた武家の薫陶
【巣鴨拘置所で松井石根大将と同室の大川周明の言葉】
松井石根大将が、正に「聖将」と感じさせるような高潔な人格を持っていたことは、下記のような厳格な人物評を行う者たちの絶賛からも疑うことができない時事である。
大川周明は巣鴨で同室であった松井大将を評して「銭湯に入る人は、他人の前に肉体をさらさねばならぬ。同様に監獄に入る人は、晩かれ早かれ、心の衣装を脱がせられる。一緒に獄中で起臥することは、恐らく人間の真実を知る最上の機会である。私は獄中で初めて将軍の精神をその赤裸々の姿に於いてみた。語黙動静、坐臥進退、凡そ将軍のように微塵も衒気なく、而も挙措自ら節度に叶って居る人は、絶無でなくとも希有である。「何を以て君子と知るや、交情また淡の如とし」私はこの淡如という形容詞は、将軍のために出来た言葉のように思った。私はかような風格の将軍と日夜起臥を偕にする欣びを、獄中で満喫しようとは夢にも思はなかった。」と記した。(『安楽の門』大川周明著P⒖)
「大川周明も松井大将にならって、毎朝毎夕「観音経」を読誦している間に「ある夜、豁然と法悦の境地に入ることができた。私は初めて、雲霧をひらいて青天に白日を仰ぐが如く、観音の光明を得た」と書いている。」(『松井石根の陣中日誌』田中正明編)
「監房の壁に観世音菩薩の御影をかかげ、朝7時、夕7時、毎日その前に合掌礼拝し、終わって『般若心経』と『観音経』を読誦するのを日課とした。約三年間及入獄中一日としてこの観経は欠かすことはなかった。その信心篤い松井の影響が、いかに同囚の人びと、ことに東條元首相、重光元外相、大川周明博士らにおよんだかについては、拙著『“南京虐殺”の虚構』の中でくわしく述べている。」(『松井石根の陣中日誌』田中正明編P31)
「徳富蘇峰は富士山麓山中湖畔の別荘で、松井と相隣して住んでいた。その蘇峰が昭和の武将を評したなかで、松井石根と今村均の両大将を“昭和の聖将なり”とたたえている。……。二人に共通するものは、名利・英達を求めず、世の毀誉褒貶に左右されず、常に正道を踏んで、いつも高次元の目標を設定し、無私の精神で奉仕するという、宗教的、精神的な一生を貫いたことである。」(『松井石根の陣中日誌』田中正明編P32)
以上で如何に松井石根大将の傍にいた者がその人格に感動したかが、分かるだろう。私は松井石根の人生を語るには先ず、その淵源を知る必要を感じ、この一文を記すこととした。
【最後の武士 松井石根】
松井石根大将は東京裁判で南京大虐殺指揮者の無実の罪で昭和23年に処刑される数か月前、獄中で古稀を迎え漢詩を詠んだ。
詩は生れてから監獄での古稀までを簡略に列記しているが、冒頭に「明治戊寅の夏 尾州牧野に生る 清和源氏の裔 幼にして凌雲の気有り 十六陸軍に入り  廿歳少尉に任ず 累升大将を受け 勲位寵恩全し」と記し、最後まで自分は尾張の武家に生れたことを誇りにしていることを明らかにしている。そこで松井石根大将が受けた幼少期の武家としての薫陶を考察する。
 何故、松井石根大将が最後の武士かというかは、この一文を最後までご覧いただき、法廷での闘い、処刑での態度等を合わせて考えていただければご納得いただけるものと確信している。
松井大将漢詩 獄中古希を迎う

【名門武家松井家の家系】 
松井家の祖は清和源氏で、源為義の第十六子が保元平治の乱を避け備中松井庄へ隠れて松井を名乗り、平家滅亡後に鎌倉幕府に仕え備中二郡を代々領したことに始まる。戦国時代、駿河国・遠江国の大名今川氏に早くから仕えた遠江松井氏(信薫や宗信に代表される)は代々遠州二俣城に居城したが、今川義元の侍大将松井五郎宗信は桶狭間の戦いで義元の旗本として織田信長軍の急襲に対し奮戦し首級五十余をあげたが、義元とともに討ち死にしたので遠江松井氏は没落した。その後徳川家康に召し出され、松井氏は関ケ原の戦い、大阪の陣等に手柄を立て重く用いられ、家康の子で尾張藩の祖の直公に仕えてからは徳川御三家筆頭の尾張藩の名家として奉行等を務めながら幕末まで仕えた。
また別の系統の松井氏に、康親弟の松井光次の系統で家康麾下の牧野康成に付属され、のち越後長岡藩家老家となった流や、早くから徳川家康に付き幕末まで譜代大名として栄え維新を川越藩主として迎えた三河松井氏がある。
 以上でわかるように松井石根大将の家系は徳川家に仕えた名門武家であった。
【大きな父母の薫陶の影響】
「父」
父の武兵衛武圀は典型的な、優秀な江戸武士の素養を備えながらも維新後、時代に合わせられず困窮した硬骨漢であった。
尾張藩中で文武に秀で、立派な識見をも持っていたので、藩中では常に重きをなした。特に文は詩、書、画に長じ、同じ徳川御三家だが家風の違う水戸学を尊崇し、幕末の志士に多大に影響を与えた藤田東湖に私淑したほど直情傾向があった。武は柳生道場にて練磨したが天性と相まり、一頭地を抜き尾張藩中屈指の青年剣豪と呼ばれた。また武圀の「圀」は徳川光圀から採ったとも考えられている。廃藩後、藩から勧められた陸軍少尉任官を断り県庁に勤めたが武人的、純情かつ激しい気性により上司にへつらわなかったので、郡役所や赤十字社等の職を転々とした。
「母」
母の久子は、尾張藩御納戸役の名家正木家の長女のお嬢様育ちであったが日本女性の通すべき道を心得、実践した賢婦人であった。十二人の子の母として一人一人を国の要に立てるため力を尽くした。苦しい家計で子供たちに淋しい思いをさせないよう、いつも明るく朗らかに生活し、わざわざ二抱えもある大きな金吾甕を買い、珍しい金魚を飼ったり、大人の背丈よりも高い大凧を作って与えたり、大きな四手網を持たせたり、常に近所の子供たちより優越を感じるようにつとめた。石根をはじめ子供たちが皆のびのびとして明朗でひがみもなく育ったのは母久子の力であった。

【幼少期の石根が受けた江戸時代武士の基礎教養と松井家の武家教育】
「父母の語る英雄譚・人生訓」
父武圀は少年石根に、尾張の生んだ古今の英雄について良く語り、特に尾張中村出の豊臣秀吉や加藤清正、三河出の徳川家康のことは殆ど毎晩の就寝前の語りとして、武勇談、機知談、刻苦談をした。
尾張藩の名門武家であった松井武圀は当然、武家の必須教養の四書五経を修めていたし、藤田東湖に私淑するほどであるから和漢の歴史書、例えば『左伝』や『戦国策』なども読破していたと予想できる。従って武圀が石根に語った豊臣秀吉、加藤清正、徳川家康の武勇談、機知談、刻苦談は単なる物語ではなく、それらの知識に裏付けされた分析・評価が含まれた本格的な武家の教育であったと推察できる。  
であるから、後年、松井石根が中国で孫文に接し暗に陽に中国革命を支援し汪兆銘。胡漢民、蒋介石、張群、何応欽、宋子文、季択一、戴天仇等の革命党人士、閻錫山、馮玉祥、李宋仁などの地方軍閥と交流したり、日支事変前に中国で蒋介石に直接会い説得をし事変時には欧米の駐在員に積極的に会い日本の立場を説明することができた行動力・交渉力の個人的素養の部分は、父武圀は幼少の石根に語った江戸武士の基礎素養としての中国の春秋戦国の群雄割拠時の政略・謀略譚を含む英雄譚、人生訓にあったと考えるべきであろう。
母久子は、よく男の子たちに絵本太閤記を読み聞かせ、「太閤様は貧乏なお百姓の子だが一生懸命勉強、努力して天下に号令する大英傑になられた。お前たちは松井という立派な武門に生まれたのだから太閤様よりもっと偉くならねばならない。それは無理としても太閤様を見習い日本一の偉い人になる覚悟をしっかりと持たなければならない」と常に付け加えた。そこには秀吉という身近な郷土の英雄を使い、「郷土愛=愛国」「身分よりも努力のほうが重要」「自分の家門に誇りを持つ=先祖を大事にする」ということを教え込んだ。母久子は、父武圀の教えた武勇談に愛情の魂を吹き込み、それが後年、松井石根が支那事変時にも現地の人民を愛護することに最大限努力し、孤児を引き取ったり、迷い犬を日本に連れて帰り自ら買ったりした優しさとなってあらわれたのであろう。
また後年興亜観音を建立し朝晩欠かさず読経したり、先祖の菩提寺にお参りしたり、神棚をかざり先祖、皇室を篤く祀るなど、神道、仏教への信仰心が特に篤かったのも父母の姿から受け継いだと考えるべきだろう。
「江戸時代武士の基礎教養」
四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)を中心とする「経書」が中心の漢籍で「経書」が歴史(和・漢)、詩文より遥かに重視された。6、7歳から四書五経を詠みはじめ、17歳くらいで素読の試験があり、旗本ではその試験に通らなければ家督を継ぐことが許されなかった。素読を終わった者で更に学問を深めたいものは、『左伝』や『戦国策』などを読み藩政改革、日本国策などについて討論し合い、主君上司へ献策をし謀臣となった。『左伝』は春秋時代、『戦国策』は戦国時代の中国で多くの国が分立し領土獲得のための侵略戦争が至るところで無数に発生する中での武力戦術、情報戦、外交戦、国力増強などについての各国の事績を記したもので、『戦国策』では概ね縦横家(説客)が活躍している。
「武芸 新陰流の正統・尾張柳生道場」
父武圀は家の一角の広い軒下を武芸練習場にして男の子たちに剣術の稽古をつけた。石根は最も武芸鍛錬を好み、柳生道場の名剣士であった父を負かしたく思い、自分が起ち上がれなくなるまで徹底して稽古を続けたので、武圀は「筋が良いぞ、この調子ならどんどん伸びるぞ」と激励し、「石根は一番見どころがある気がする。これから大成するよう導いてやろう」と母に密かに話した。
尾張藩中屈指の青年剣豪と呼ばれた父武圀が通った柳生道場は、柳生新陰流の本流の尾張柳生の道場に違いないから、松井石根は柳生新陰流武芸の正統を幼少期に習ったことになる。
柳生新陰流は江戸、尾張に分かれたが、尾張柳生家では、新陰流の道統は流祖信綱より二世宗厳、三世柳生利厳に伝わり尾張柳生家にあると主張している(柳生厳長『正傳新陰流』)。江戸柳生からは柳生三厳(柳生十兵衛)、尾張柳生から柳生厳包(柳生連也斎)など天才剣士を輩出した。
新陰流は柔術の体さばきなどをその術理に取り入れており、素手で相手の刀を取る「無刀取り」は柔術の技とも言えるから、石根少年と父との剣術の稽古も、現在の剣道のものとは少し違う、武士の武芸で古武術的なものであったかもしれない。
「文芸 武家の素養としての詩・書・画」
 先ず初めに明確にしておかなければならないことは、江戸後期から明治初期における文芸思潮の主流は、漢学の盛行だということである。
従って、父武圀の経歴に「特に文は詩、書、画に長じ」とあるのは明治初期においては典型的な教養人であるということを示している。
松井石根は最後の処刑の直前まで、人生の通過点で折に触れ、漢詩を詠み自分の思いを表現し、又求められたり自発的な様々な場で書の揮毫を行っている。これらは明らかに幼少の時に家庭で受け、見てもいた父の教養を最後まで保ち続けたというとである。
 また松井石根は、1939年61歳の時に「陸軍美術協会」が発足したときに会長に推され、副会長には藤島武二がなったが、それも普段からの美術愛好により美術界からも歓迎されたからに違いない。松井石根が建立した興亜観音には当時の著名画家の絵が多く奉納されていることからもそれが証明されている。
【少年石根の武士としての自覚】
「英雄である先祖に羞じない立派な人間になる」
父と母から聞かされ教え込まれた名門武家としての教えは石根少年の心の大きな柱となり揺るがぬ勇気を与えていた。
石根は親しい友達に「僕の家の先祖は源氏の大将だよ。あの有名な源為義の十四番目の男の子が初めて松井という姓を名乗ったそうだ。それは系図に書いてあるよ」と機会あるごとに語っていた。
石根は「僕も松井五郎宗信公のような強い大将になろう」と常に考えていた。
弟の七男と桶狭間の古戦場を見に行き、そこで主君の今川義元を守るために旗本として奮戦し戦死した先祖の松井兵部少輔宗信の墓前に陸軍大将になることを誓った。そしてそれは後年、見事に実現した。
「和して同ぜず」
故郷の関係者が存命中に聞き取った以下のエピソードから、少年期の石根が同級生をはるかに超える大志と教養、美学を父から与えられ血肉にしていたことが分かる。
少年時代の石根は黙々として無駄口は言わず悪い遊びの仲間に加わらず、暇さへあれば懐から書物を出して黙々と読み成績はいつもトップであったから、悪童から反感を持たれていた。
ある日、石根が独りで学校から帰るとき、数名の悪童が突然石根に飛びかかり倒して馬乗りになり散々殴った。石根が「君らは突然何をするか、卑怯だ。」と言うと悪童は「貴様は生意気だ。学問ができるので威張るのは怪しからん。勉強しないで我々と遊べばゆるしてやる」と言った。石根は「僕は一度も諸君に対し、威張ったことは無いつもりだ。それでも、根も葉もない言いがかりで僕をぶつなら気のすむまでぶて、僕は雲助やごまの灰と喧嘩するのは大嫌いだ!」と泣きもせず騒がず手向かいもしなかったので、悪童たちは恥じてコソコソと逃げ帰った。
帰宅した石根が父に話した後で「馬鹿を相手にするのは馬鹿ですからね」と結んだので父は「よく我慢した。それでよい。本当の武士、剣客はめったに抜かないものだ。国、君、親のための大喧嘩なら命を投げ出し戦わなければならないが、つまらぬ喧嘩はしない方が良い。これからもそのつもりでやれ。」と言い感心した。このことは石根の賢明さとともに何物にも屈しない忍耐と、見た目を気にしない素朴さと、人を許し容れる、大きく優しい心の表れでした。
この日の後は、悪童は「松井にはとてもかなわない。」と言って兜を脱ぎ石根の下に集まってきました。石根は彼らを易しく迎え入れ彼らと「追いやい」や「どしん馬」などの昔からの遊びで楽しく過ごした。というものである。
暴力も何も使わず、同級生が慕って集まってくるようにしたというのだから、既に後年に大将になる人格・指導力の片鱗があったということであろう。
その後も、近所の川で鮒、鯰、泥鰌を採って遊ぶときは他の子たちが笊や小網でジャブジャブやるのを尻目に父の作った大きな四手網で一度に何尾も採り羨ましがらせたように常に同級生のあこがれであった。

以上簡単だが、少年期の松井岩根の家庭環境が、後の「聖将松井岩根」作った事の一部を明らかにした。
プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

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