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来年からは6月4日は新しい「中国連邦国」の建国記念日となる

来年からは6月4日は新しい「中国連邦国」の建国記念日となる
いまだに、「米中経済対立」だと思っている方に見ていただきたいので、以下に昨日の郭文貴の放送の邦訳を載せます。
「ポンぺオの6,4天安門事件記念演説は素晴らしいものであった。あの日天安門で共産党に殺された全ての人は全て英雄だと言ったのである。私は本当に感動した。アメリカ政府が初めて天安門事件が「大虐殺」であったことを宣言してくれたのである。ポンぺオは、あらかじめ用意された原稿を、更に激しく中共を責める内容に自ら書き換えたらしい。今や、ワシントン、ニューヨークの政界、メディア界、経済界のどこでも反共の者で一杯になった。親共産党の者の居場所はなくなり排除されてしまう。私が暴露革命を始めた二年前には考えもつかなかったし、半年前でも全く状況は違っていた。
その頃は私の講演は中共の圧力で取り消され、弁護士の事務所の500台のパソコンの全てがハッカー攻撃で使用不能になり、誰も私の言うことに耳をかたむけず、私は孤軍奮闘であった。しかし今は全く違うのだ。目の前に見えるホワイトハウス(公園を隔てて数百メートル)でもどこでも皆、同じ考えなのだ。
昨日の夜半、金融界の大物たちが来て香港の状況がどうなるかを聞いてきた。私は「6月9日以降、香港ドルはどんどん暴落して行きつくまで行くだろう。人民元もそれと共に暴落するだろう。正に大暴落だ。」と答えた。
昨日は友達と最後の6,4学生虐殺を追悼記念しての食事会をした。来年からは6月4日は新しい「中国連邦国」の建国記念日となるのだ。
アメリカでは私は「共産党の撲滅者郭文貴」と呼ばれている。皆さんもそう呼んでくれると嬉しいな。
また、昨日の昼は、中共中央の指示で私を攻撃している在米の偽民主活動家たちを、私が訴えているた裁判に出廷した。その前に向こうは、負けを認め1ドル払うから調停にしてくれと言ってきた。ネットで偉そうにしているのとは違いとてもかわいそうな様子で謝ってきた。しかし、私は断固ととして断った。それは、いかに中共が卑怯な手段で、国内、国外で人を脅迫して、自分の手先にかえて使うかを、法廷で世界中に対して明らかにするためである。
一日の内に自家用ジェットに10人乗せ移動し、昼は裁判所で最低人格の奴らと数時間話をし、夜は最高人格の同志たちと共産党を滅ぼすための話し合いをする。このような生活に、私は大変満足している。とても幸せで充実している。
今、幾つかの国が香港の政府関係者を調査している。香港のいくつかの企業が制裁されるだろう。
その他の重要な事だが、王健氏の謀殺事件についてだが、やっとアメリカの司法部門が動き出した。王氏がどのようにして死んだか、彼の金は何処に行ったか、必ず明らかになる。王氏の奥さん。司法部門が行きますよ。
今日はここまで、全ては始まったばかり。」
以上です。
https://www.youtube.com/watch?v=E0lcdailVfg&feature=share

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5月26日郭文貴放送 2020年6月4日は新しい中国の建国記念日になる!!

二年前に開始した郭文貴のアメリカでの「暴露革命」は偉大な結果を出し続けているが、ついに最終党争に入りつつある。
彼は言う。
「今日は2019年5月26日です。今年ももうすぐ記念日6,4(1989年6月4日の天安門学生大虐殺日)が来ます。
今年、2019年の6月4日は、最後の天安門学生虐殺記念日となります。
来年、2020年の6月4日は、新中国の建国記念日となるでしょう。中国共産党が地球上から消滅するのです。
また、偽民主活動家共が民を騙せる最後の日々でもある。
戦友たちよ、前のアメリカのペンス副大統領の演説を、よく覚えておいて下さい。
そしてこれからのワシントンとニューヨークの金融界及び各界の大物たちの、未だかつてなかったような演説と態度表明を、気を付けて注視してください。
全ては。始まったばかりです。」
日本人は彼をよく見なければならない。
郭文貴1

「日中植林事業」モンゴル族抹殺にも加担

「日中植林事業」モンゴル族抹殺にも加担オルドス3
オルドス1
オルドス2
しています。
例えば、日本による植林事業のメッカの内モンゴルのオルドスは、我々が教科書で見たモンゴル人が放牧する大草原は、砂漠化で消滅し、モンゴル人は土地を取られ追い出されて、住んでいません。
日本の植林事業で利益を受けるのは省市の共産党と取り巻きの事業家、ゴロツキ、貧しい入植者で、全て漢民族です。
写真は日本の植林代表団の歓迎宴でモンゴル民族舞踊を踊った女性が、実は全て漢民族で、モンゴル文化は観光資源として利用しているに過ぎないのに、そこにいた日本人が皆、騙されてモンゴル人だと思っている様子です。

正確な認識が言論戦には必要

正確な認識が言論戦に必要
~中国経済バブル崩壊説と「中国」という語は無かった説について~
                                      平成30年3月7日
溝口墨道
始め
中国問題が日本にとり死活的な課題であり、日々の言論戦が重要であることは言うまでもない。
反日左翼リベラルによる媚中言論は問題外だが、保守派の「専門家」が中国に関して間違った情報を発信することも、真実と真心に全てを頼る保守派の弱体化に直結するので問題である。
私は中国を多少は知っている身としてそれを正す責務を感じ、本稿を為すが、諸兄の耳を汚すことをお許し願いたい。
下線文
中国のバブル経済崩壊について
一時期「中国の経済は、もうすぐバブル崩壊により壊滅し、中国社会が数か月後に大混乱に陥る」という言論があった。私もその意見に喝采はしたが、一方では心臓が飛び出るほどビックリし、不満にも思った。
何故驚いたかといえば、衆知のように中国では党=軍=学校=マスコミ=企業=……etc.(党の支配下でなくほぼ=の有機的結合の同体)であるから、どれか一つが完全に「●●崩壊」すると「全体崩壊」につながる恐れが大きく、しかも特に中国人は「金」には信じがたいほど拘るので、「もうすぐ経済大崩壊」は「もうすぐ内乱」「もうすぐ共産党崩壊」とほぼ同意義だからである(信じられない人は普通の少し頭の良い中国人に聞くと分かる※註:日本語で聞くと決して本心は言わないが)。
それなのに「数字がデタラメ(※昔は白髪三千丈と言ったように日本的尺度からは全てがデタラメ、、ましてや共産党政権においては議論自体がナンセンス)」なのを発見したかのように言い、結果として「数か月後に全体崩壊が起こる」と事実上公言(何時かは必ず崩壊するが少なくとも数か月以内でないのは明白であるにもかかわらず)してしまったのだから、私はただ驚くほかはなかった。
不満だったのは、経済専門家であれば中国のバブル経済を崩壊させる方法を考えてほしかったことである。
勿論、中国では経済バブルだろうが何だろうが日々崩壊し再生しているが、公平、道徳が元々なく腐りきった土壌だから、崩壊も再生も日本のようには綺麗にはしないことだけは間違いが無く、他者がそれをコントロールすることは難しい。
いずれにしても、結果として、バブル崩壊予想言説がリベラル派により初めから嘲笑されただけで中共の悪、捏造を明らかにするのに寄与しないで終わったのは残念な限りである。

「中国」という語の起源について
 最近「『中国』という語は100年前に清朝を滅ぼした孫文等により発明されたもので、それ以前には「中国」「中国人」などという語も概念も無かったのだから「中国人」などはいない!」という意見を散見する。勿論それは間違いで「中国」「中国人」という語は古来漢人の間で不通に使われていたから、保守派が恥をかかないように踏まえておくべき事実を提出しておきたい。
 以下、それを述べるが一例で十分である。
1700年前の西晋時代に陳寿が著し、日本人には「邪馬台国」の記載や劉備・諸葛孔明の出る『三国志演義』の元本として馴染み深い、中国の正史『三国志・魏書』の中の「東夷伝」だけでも33個の「中国」「中国人」という語が出てくる。(※最後に抜粋を添付したので参照)
『三国志・魏書・東夷伝』では、400年以上漢人王朝の正式な領土であった現在の遼東半島の遼東郡と朝鮮半島中部以北の楽浪郡・帯方郡に接する国家・民族の人口、民族、自然、社会について記載している。
そこで著者は自国や人、言語、風俗について「中國」「中國人」「中国語」「中國袍(服)」と呼んでおり「魏」や「晋」の国号は用いていない。
「然烏丸,鮮卑稍更彊盛、亦因漢末之亂、中國多事、不遑外討、」(註1)
約(烏丸や鮮卑が強くなったが、中国は漢末の乱があったので討伐が出来なかった。)
「赤山在遼東西北數千里、如中國人以死之魂神歸泰山也。」(註2)
  (赤山は遼東の西北数千里にあるが、中国人が死ぬと霊魂が泰山に帰ると信じるのと同じようである)
「禽獸草木略與中國同。」(註3)
「國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。」(註4)
  (そこでは鉄を産出するが韓と濊と倭の皆がこれを採り、中国での銭のように市での売買に用い、
又二郡へ納めている)
「各自有姓、姓如中國之姓矣。」(註5)
  (各々に姓があるが、中国の姓に似ている)
「多知中國語、由與中國錯居故也。」(註6)
  (中国人と雑居しているせいか多くが中国語を話せる)
【結論】
「中国」は国号ではないが古来、国・地域や民族を著す自然な用い方をされていた。
【私の意見】
「中華民国」「中華人民共和国」という国名の問題点の本質は「中国」ではなく、「中華」についてである。
「中華」とは勿論、「中国」と「華夏」の合体で強烈で無条件の漢民族中心の華夷秩序思想を自然と含む。
「中華民国」は正に華夏の漢人がさげすむべき異民族の満州人による300年近い支配から脱する「滅満興漢」運動の自然な帰結として成立し満州人皇帝を追い出し、満州人の財産を奪った。
問題は、かなり漢人化し混住していた満州人でさえ夷狄としたのであるから、同じく満州人の支配及を受けながらも別々の自治で暮らし言語も風俗も全く違うウイグル人やチベット人は満州人の政権が崩壊した段階で「中華」を冠する漢人政府に属するいわれは全くない事であった。
「中華」に属してしまえば、華夏民族(漢民族)でない彼らの存在自体が矛盾となり遅かれ早かれ絶滅させられるのは明らかである。
従って、「中華」を冠する国名には問題があると言わざるを得ず、華夏でない民族は独立の権利を有する事になる。


『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳
 晉 陳壽撰  (宋 裴松之 註)
[烏丸] [鮮卑] [東夷] [夫余] [高句麗] [東沃沮] [韓] [倭人]
   書載 「蠻夷猾夏」、詩稱「玁狁孔熾」、久矣其爲中國患也。秦,漢以來、匈奴久爲邊害。孝武雖外事四夷、東平兩越,朝鮮、西討貳師,大宛、開邛, sak[冠艸脚乍],夜郎之道、然皆在荒服之外、不能爲中國輕重。而匈奴最逼於諸夏、胡騎南侵則三邊受敵、是以[屡]遣衛,霍之將、深入北伐、窮追單于、奪其饒衍之地。後遂保塞稱藩、世以衰弱。建安中、呼廚泉南單于入朝、遂留内侍、使右賢王撫其國、而匈奴折節、過於漢舊。然烏丸,鮮卑稍更彊盛、亦因漢末之亂、中國多事、不遑外討(註1)、故得擅漠南之地、寇暴城邑、殺略人民、北邊仍受其困。會袁紹兼河北、乃撫有三郡烏丸、寵其名王而收其精騎。其後尚,熙又逃于蹋tau[扁足旁冠日脚羽]頓。tau[扁足旁冠日脚羽]頓又驍武、邊長老皆比之冒頓、恃其阻遠、敢受亡命、以雄百蠻。

父子男女、相對蹲踞、悉kon[冠髟脚几]頭以爲輕便。婦人至嫁時乃養髮、分爲髻、著句決、飾以金碧、猶中國有冠歩搖也。父兄死、妻後母執嫂;若無執嫂者、則己子以親之次妻伯叔焉、死則歸其故夫。俗識鳥獸孕乳、時以四節、耕種常用布穀鳴爲候。地宜青[禾祭],東牆、東牆似蓬草、實如葵子、至十月熟。能作白酒、而不知作麹蘗。米常仰中國。大人能作弓矢鞍勒、鍛金鐵爲兵器、能刺韋作文繍、織縷氈[毛曷]。有病、知以艾灸、或燒石自熨、燒地臥上、或隨痛病處、以刀決脈出血、及祝天地山川之神、無鍼藥。貴兵死、斂屍有棺、始死則哭、葬則歌舞相送。肥養犬、以采繩嬰牽、并取亡者所乘馬,衣物,生時服飾、皆燒以送之。特屬累犬、使護死者神靈歸乎赤山。赤山在遼東西北數千里、如中國人以死之魂神歸泰山也。(註2)至葬日、夜聚親舊員坐、牽犬馬歴位、或歌哭者、擲肉與之。使二人口頌呪文、使死者魂神徑至、歴險阻、勿令横鬼遮護、達其赤山、然後殺犬馬衣物燒之。敬鬼神、祠天地日月星辰山川、及先大人有健名者、亦同祠以牛羊、祠畢皆燒之。
 
後袁尚敗奔tau[扁足旁冠日脚羽]頓、憑其勢、復圖冀州。會太祖平河北、柔帥鮮卑,烏丸歸附、遂因以柔爲校尉、猶持漢使節、治廣nei[冠宀心脚用]如舊。建安十一年、太祖自征tau[扁足旁冠日脚羽]頓於柳城、潛軍詭道、未至百餘里、虜乃覺。尚與tau[扁足旁冠日脚羽]頓將衆逆戰於凡城、兵馬甚盛。太祖登高望虜陳、(柳)〔抑〕軍未進、觀其小動、乃撃破其衆、臨陳斬tau[扁足旁冠日脚羽]頓首、死者被野。速附丸、樓班、烏延等走遼東、遼東悉斬、傳送其首。其餘遺迸皆降。及幽州,并州柔所統烏丸萬餘落、悉徙其族居中國、帥從其侯王大人種衆與征伐。由是三郡烏丸爲天下名騎。
 
 【魏書曰:鮮卑亦東胡之餘也、別保鮮卑山、因號焉。其言語習俗與烏丸同。其地東接遼水、西當西城。常以季春大會、作樂水上、嫁女娶婦、konn[髟几]頭飲宴。其獸異於中國者、野馬,[羊原]羊,端牛。端牛角爲弓、世謂之角端者也。又有貂,[豸内],[鼠軍]子、皮毛柔蠕、故天下以爲名裘。鮮卑自爲冒頓所破、遠竄遼東塞外、不與餘國爭衡、未有名通於漢、而自與烏丸相接。

   軻比能本小種鮮卑、以勇健、斷法平端、不貪財物、衆推以爲大人。部落近塞、自袁紹據河北、中國人多亡叛歸之、教作兵器鎧楯、頗學文字。故其勒御部衆、擬則中國、出入弋獵、建立旌麾、以鼓節爲進退。建安中、因閻柔上貢獻。太祖西征關中、田銀反河間、比能將三千餘騎隨柔撃破銀。後代郡烏丸反、比能復助爲寇害、太祖以en[扁焉旁右郊]陵侯彰爲驍騎將軍、北征、大破之。比能走出塞、後復通貢獻。延康初、比能遣使獻馬、文帝亦立比能爲附義王。黄初二年、比能出諸魏人在鮮卑者五百餘家、還居代郡。

【魏略曰:其俗停喪五月、以久爲榮。其祭亡者、有生有熟。喪主不欲速而他人彊之、常諍引以此爲節。其居喪、男女皆純白、婦人着布面衣、去環珮、大體與中國相彷彿也】。
   夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊、度以夫餘在二虜之間、妻以宗女。尉仇台死、簡位居立。無嫡子、有[冠薛脚子]子麻余。位居死、諸加共立麻余。牛加兄子名位宮、爲大使、輕財善施、國人附之。

   侯準既僭號稱王、爲燕亡人衞滿所攻奪。
【魏略曰、昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊爲王欲東略地、朝鮮侯亦自稱爲王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之乃止。使禮西説燕、燕止之不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方取地二千餘里、至滿潘汗爲界。朝鮮遂弱、及秦并天下、使蒙恬築長城到遼東時、朝鮮王否立、畏秦襲之、略服屬秦、不肯朝會。否死其子準立。二十餘年而陳項起、天下亂、燕齊趙民愁苦、稍稍亡往準、準乃置之於西方、及漢以廬綰爲燕王、朝鮮與燕界於bai[偏水旁貝]水。及綰反入匈奴、燕人衞滿亡命、爲胡服東度bai[偏水旁貝]水、詣準降。説準求居西界、故中國亡命爲朝鮮藩屏。準信寵之、拜爲博士、賜以圭封之百里、令守西邊。滿誘亡黨、衆稍多。乃詐遣人告準言漢兵十道至求入宿衞、遂還攻準。準與滿戰、不敵也】
將其左右宮人走入海居韓地、自號韓王。
【魏略曰、其子及親留在國者、因冒姓韓氏。準王海中、不與朝鮮相往來】
其後絶滅、今韓人猶有奉其祭祀者。
   
諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。其立蘇塗之義有似浮屠、而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。(註3)出大栗、大如梨。又出細尾鷄、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。又有州胡在馬韓之西海中大島上。其人差短小、言語不與韓同、皆髠頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬。其衣有上無下、略如裸勢。乘船往來、市買韓中。
  
【魏略曰、其國作屋、横累木爲之、有似牢獄也】
國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。(註4)俗喜歌舞飮酒。有瑟、其形似筑、彈之亦有音曲。兒生、便以石atu[冠厭脚土]其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。其俗、行者相逢、皆住讓路。
   弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施竃皆在戸西。其瀆廬國與倭接界。十二國亦有王、其人形皆大。衣服[旁潔]清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。 

   倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

   男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東。其風俗不淫、男子皆露[糸介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同。倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用hen[冠竹脚邊]豆、手食。其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。出眞珠、青玉。其山有丹、其木有[木冉]、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠[冠竹脚幹]、桃支。有薑、橘、椒、zeu[冠艸脚襄]荷、不知以爲滋味。有bi[扁犬旁爾]猴、黒雉。其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。
   tei[扁右低]人有王、所從來久矣。自漢開益州、置武都群、排其種人、分竄山谷間、或在福禄、或在ken[扁水旁右研]・隴左右。其種非一、稱槃瓠之後、或號青tei[扁右低]、或號白tei[扁右低]、或號[虫冉]tei[扁右低]、此蓋蟲之類而處國、人即其服色而名之也。其自相號曰盍稚、各有王侯、多受
中國封拜。近去建安中、興國tei[扁右低]王阿貴、白項tei[扁右低]王千萬各有部落萬餘、至十六年、從馬超爲亂。超破之後、阿貴爲夏侯淵所攻滅、千萬西南入蜀、其部落不能去、皆降。國家分徒其前後兩端者、置扶風・美陽。今之安夷・撫夷二部護軍所典是也。其(太)〔本〕守善、分留天水・南安界。今之(廣平魏郡)〔廣魏郡〕所守是也。其俗、謂不與中國同、及羌雜胡同、各自有姓、姓如中國之姓矣。(註5)其衣服尚青絳、俗能織布、善田種、畜養豕牛馬驢騾。其婦人嫁時著袵露、其縁飾之制有似羌、袵露有似中國袍。皆編髪。多知中國語、由與中國錯居故也。(註6)其自還種落間、即自tei[扁右低]語。其嫁娶有似於羌、此蓋乃昔所謂西戎在于街・冀・[豕原]道者也。今雖都統於郡國、然故自有王侯在其虚落間。又故武都陰平街左右、亦有萬餘落。
  
   盤越國一名漢越王、在天竺東南數千里、與益部相近、其人小與中國人等、蜀人賈似至焉。南道而西極轉東南盡矣。
  
   海西有遲散城、從國下直北至烏丹城、西南又渡一河、乘船一日乃過。西南又渡一河、一日乃過。凡有大都三、卻從安谷城陸道直北行之海北、復直西行之海西、復直南行經之鳥遲散城、渡一河、乘船一日乃過。周迴繞海、凡當渡大海六日乃到其國。國有小城邑合四百餘、東西南北數千里。其王治濱側河海、以石爲城郭。其土地有松、柏、槐、梓、竹、葦、楊柳、梧桐、百草。民俗、田種五穀、畜乘有馬・騾・驢・駱駝。桑蠶。俗多奇幻、口中出火、自縛自解、跳十二丸巧妙。其國無常主、國中有災異、輒更立賢人以爲王、而生放其故王、王亦不敢怨。其俗人長大乎正、似中國人而胡服。自云本中國一別也、常欲通使於
中國、而安息、不能過。其俗能胡書。其制度、公私宮室爲重屋、旌旗撃鼓、白蓋小車、郵驛亭置如中國。從安息繞海北到其國、人民相屬、十里一亭、三十里一置、終無盗賊。但有猛虎、獅子爲害、行道不羣即不得過。其國置小王數十、其王所治城周回百餘里、有官曹文書。王有五宮、一宮間相去十里、其王平旦之一宮聽事、至日暮一宿、明日復至一宮、五日一周。置三十六將、毎議事。一將不至則不議也。王出行、常使從人持一韋嚢自隨、有白言者、受其辭投嚢中、還宮乃省爲決理。以水晶作宮柱及器物。作弓矢。其別枝封小國、曰澤散王、曰驢分王、曰且蘭王、曰賢督王、曰[シ巳]復王、曰于羅王、其餘小王國甚多、不能一一詳之也。國出細[糸希]。作金銀錢、金錢一當銀錢十。有織成細布、言用水羊毳、名曰海西布。此國六畜皆出水、或云非獨用羊毛也。亦用木皮或野繭絲作、織成[瞿毛][兪毛]、tau[扁冠日脚羽旁毛][登毛]、kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]帳之屬皆好、其色又鮮于海東諸國所作也。又常利得中國絲、解以爲胡綾、故數與安息諸國交市於海中。海水苦不可食、故往來者希到其國中。山出九色次玉石、一曰青、二曰赤、三曰黄、四曰白、五曰黒、六曰緑、七曰紫、八曰紅、九曰紺。今伊吾山中有九色石、即其類。陽嘉三年時、疎勒王臣槃獻海西青石、金帯各一。又今『西域舊圖』云kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]賓、條支諸國出[王奇]石、即次玉石也。

近衛文麿一派と中国共産党の戦争への世論誘導は似ていた(中国の場合)

1920年代に入ると、中国では先ず革命後のソ連の指令で中国の社会主義者を中心として「日本悪玉論、日本が中国を侵略している論」が日夜宣伝された。
ソ連共産党の指令の目的は、最大直接敵対勢力である満洲の関東軍の背後に軍事衝突を起こし、その北進を断念させることと、軍事衝突による中国の後輩に付け入りそこを共産化する事であった。
 当時の中国代表政府(国民党政府)が日本とは戦争しない売国政府であり、共産党おそが「抗日」を指導するとの虚偽宣伝を続けた。

 ソ連だけでなく欧米をも巻き込んだ「反日」の深化固定化により、国共合作抗日戦争政権に持ち込み、将来の革命内戦への布石を完了した。
 同時に国民党だけを日本軍と戦わせただけでなく、背後から共産党軍は国民党軍を攻撃し、更には国民党軍の軍事情報を日本軍に売るというように一挙両得どころではなく一挙三得・四得・五得の策を実行した。

 それらは敗戦による日本軍部の消滅と中国、朝鮮北部、ベトナムの共産化という、ソ連及び世界の社会主義者にとっての大成功となったのであるが、はたして日本はそこでどのような役割を果たしたのであろうか、現行の現代史なり東京裁判、中国の愛国基地の通りの単純な軍国主義侵略こっかであったのであろうか?

 それを以後、数編で検証してみたい。
プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

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