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戦前戦中の日本人は杉原千畝だけでなく、満洲、日本本土、ベルリン、モスクワ、ウラジオストク、上海、フランスでも日本人のいる処ではどこでも、ユダヤ難民を救済しました

杉原千畝だけでなく日本人総体がユダヤ人難民を助けていた
戦前戦中のユダヤ人迫害が最も厳しかった時期、日本人はリトアニアの杉原千畝だけでなく、満洲、日本本土、ベルリン、モスクワ、ウラジオストク、上海、フランスでも、結局日本人のいる処ではどこでも、大なり小なりユダヤ難民は救済されていたのです。また、松井大将が組織した大亜細亜協会関係者もそれに多く関係していたこともあきらかになりました。

日本人によるユダヤ人救済の代表的なものだけを時間系列的に列挙します。(表を参照してください)
大勢の大亜細亜主義者と杉原千畝他の日本人 猶太救済表の2

●昭和2年1927年 ハルビン・ユダヤ教団会長のアブラハム・カウフマンはソ連極東ビロビジャンへのユダヤ人移住計画を否定
●昭和3年1928年 ハルビンユダヤ人社会はソ連や東欧の同胞を救援
・樋口季一郎がグルジアでユダヤ人の老人から日本の天皇こそがユダヤ人を救う救世主に違いないと訴えられ祈りを捧げられた。
●昭和6年1931年 ハルピン全ロシア・ファシス ト党第一回大会、ユダヤ人迫害
●昭和7年1932年 満洲国建国
●昭和8年1933年 カスぺ事件、全ロシア・ファシス ト党日本支部・東京他
●昭和9年1934年 日産の鮎川が論文「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」発表
●昭和10年1935年 安江仙弘陸軍大佐が、ルピンでカウフマンと日本ユダヤ親善団体「世界民族文化協会」を創立。在満ユダヤ人の保護に尽力。
●昭和11年1936年 日独防共協定締結
●昭和12年1937年 大亜細亜協会役員のハルピン特務機関長樋口季一郎少将が、第1回極東ユダヤ人大会で「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、ドイツのユダヤ政策を間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。
樋口季一郎

●昭和13年1938年 オトポール事件で樋口季一郎少将がユダヤ人難民の入国許可。「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と樋口季一郎少将が訴えると東条英機関東軍参謀長が支持。ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。樋口ルートと呼ばれ、数千人から二万人の各説があるがいずれにしても大勢のユダヤ難民を満州国経由で救済した。
東郷茂徳駐独大使が、日独同盟反対、ナチスのユダヤ人排斥を嫌悪しリッペントロップ、大島武官と対立、駐独大使解罷免。ソ連大使へ転任。東郷大使の妻はユダヤ系ドイツ人。
安江大連特務機関長が中心となり、関東軍が「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」策定
・大亜細亜協会有力会員の犬塚惟重海軍大佐が極東猶太人民会代表会議第一回会議に参加。フグ計画(ユダヤ人大量移住受け入れ計画)を発表
犬塚惟重
・日本政府の5相会議で陸軍大臣板垣征四郎が『日本は八紘一宇の精神である』とユダヤ人排斥に反対と発言
●昭和14年1939年 駐ベルリン満州国公使館書記官王替夫、ユダヤ難民らにビザ発給開始12000(?)通以上。
・引き続き大勢のユダヤ人難民を満州国通過させた。
犬塚惟重、安江仙弘、外務省の石黒四郎の3名が「日本は上海郊外にユダヤ人自治区を設立すべしと共同提案
・犬塚惟重の「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」を日本政府が承認
・この頃、駐ソ連大使の東郷茂徳は妻がユダヤ系ドイツ人でもあり、反ナチスであったので、モスクワ大使館に来たユダヤ難民を助けるためビザを発給していたと考えられる。
●昭和15年1940年6月イタリア参戦地中海航路閉鎖により、ドイツ圏ユダヤ人はウラジオストク、満洲里へ行く外なくなる。
・樋口ルートで満洲入国3000人以上。
・犬塚惟重がナチス・ドイツの対ユダヤ人政策批判、「ユダヤ問題と日本」を発表。
リトアニア・カウナスの領事代理杉原千畝が7月~8月末、亡命ユダヤ人らへ日本通過ビザを2000通以上発給
杉原千畝

・7月敦賀港にドイツのユダヤ難民上陸開始。10月から杉原ビザのポーランド系難民入国開始
・リトアニアのカウナスの領事館が閉鎖された後はモスクワで日本通過ビザが発給されるとの手紙が難民に届いた。(東郷駐ソ大使によると思われる)。
根井三郎ウラジオ総領事代理が杉原ビザのユダヤ難民を敦賀行の船に乗せた。
根井三郎

・日本の旅行会社や敦賀港、神戸、横浜など何処の日本の一般国民がユダヤ難民を憐れみ親切に接待した。
松岡洋右がユダヤ難民の為に奔走する小辻節三に日本での滞在許可期間を延長する秘策を伝授。
松岡洋右

・10月大亜細亜主義者の建川美次中将が松岡外相の要請で駐ソ大使赴任。モスクワ大使館でも不完全な書類に日本通過ビザが発給された(ムナハミ・サビドールイスラエル国会議長経験談)。

●昭和16年1941年 
建川美次駐ソ大使が4月2日付に電信「彼ラ住ム家ナク歸ルニ所ナク進退キワマリ」と対ユダヤ難民のビザ発給緩和要請を打電。引き続きユダヤ難民に日本通過ビザを発給したと推測される。
・東条英機首相はの要請で外相就任、アメリカとの和平交渉の為、枢軸派の大使1名に辞表提出を求め課長きゅに名を停職にした。
・ユダヤ難民は敦賀港だけなく下関、神戸から入国した。
・満州国が二週間の通過ビザを発給。
・5月海軍省がナチス・ドイツの圧力で尋問のため神戸猶太協会のラビ2人を東京へ召喚したが、松岡外相は「我が国に住むかぎり、一切の心配は無用」と身柄の安全を保証した。
ハインツ・E・マウル「当時2600人を数えた在日ドイツ人の中にはユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払い、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいた。日本政府はドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これら116人のユダヤ人をドイツ人同様に遇した。 1941年末、ドイツ大使館は日本政府に全てのユダヤ人は無国籍でいかなる保護も与えられないと通告したが、日本の外務省はドイツ大使館による在日ユダヤ人解職要求を無視しユダヤ人は戦争終了まで日本で安全に暮らした。
ヒルダ・ラバウ ヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」。
ヒレル・レビン教授「いくら日本政府に何らかの損得勘定があったにせよ、日本側の対応は当時のアメリカ政府の非協力的な対応に比べれば文字通り、天と地ほどの差がある。もしアメリカ政府がもっと積極的にユダヤ人救済に手を差し伸べていたら、さらに何百万という命が助かっていたはずだからだ。 だがアメリカは、杉原がユダヤ人に対するビザの大量発給に注いだのと同じくらいの努力を、ビザを発給しない方向に使ったのだ。]
近衞秀麿(近衞文麿の異母弟)はベルリン・フィルを指揮し大音楽家(マエストロ)、音楽大使としてドイツを拠点に活動したが、ヒトラーを嫌い、ユダヤ人を匿った。近衛秀麿自伝「救われたユダヤ人家族は10以上」、「日本大使館のY君が担当した」。ドイツでの活動を禁止された近衛はフランスで自前のオーケストラを組織し、ナチス・ドイツのプロパガンダ演奏会を利用しユダヤ人音楽家を強制労働から救った。天皇の御稜威に従い、総計約50人のユダヤ人を国外へ脱出させて助けた。

ベルリン日本大使館は、終戦後まで、ゲシュタポに隠れてユダヤ系ドイツ人女性2名を匿い、陸海軍の駐在武官も、ドイツ語を習う目的で敢えてユダヤ系ドイツ人を事務所に雇っていた。強制収容所送りを免れていた混血ユダヤ人達は、日本人に雇って貰えれば助かる事を知って、ホロコーストされるユダヤ系ドイツ人をゲシュタポの厳しい監視を避けて日本大使館に連れてきた。
●1944年暮れ ドイツ留学中の古賀守は、日本大使館から幌付きトラックを借り「日の丸」の旗つけ外交用車輌とし、ユダヤ人十数人をドイツ国内からスイスへと脱出させ、バーゼルのユダヤ救済協会に全員を無事に引き渡した。
●その他にもベルリンで藤村義朗、毛利誠子などがユダヤ人を救済した。

【小結】
以上のように、同盟国ドイツの首都でもモスクワでも、満洲でもリトアニアでもフランスでも日本本土でも、上海でも何処でも日本人はユダヤ人を助けていた。しかも同盟国ドイツからの強い圧力や要請に逆らってである。
数年間にわたり欧州にいるユダヤ人難民一万人以上(総計)を地理的に遠い満洲や日本を経由させ、上海や西側諸国に逃亡させるというのは一人二人の善意や勇気では絶対に不可能である。
 確かに、その時々、場所々でキーとなるポジションにいる人物が外交官、軍人、民間人が勇気を持って行動したのだが、それだけでなく日本人全体がユダヤ人に悪感情を持っておらず、寧ろ助けたいと思っていたと考えるしかない。
一見、ユダヤ人排斥を志向したかに見える軍人や外交官も、やはり実際には、ユダヤ人救済に気が付かないふりをしたり、更には救済しようとする者に知恵を与えたりしていたのが殆どである。
 言い換えれば、日本政府はユダヤ人救済を命じなかったが、軍人、外交官、一般国民はナチス・ドイツに逆らい自主的にユダヤ人難民を助けていたということである。
 そして、そのほとんどは、それらを円滑に進めるため公にせず、勿論自慢もせず、無記名の指導層と、無名の庶民の合作でなされたのである。
 それが実体であった。

【事後談】
・アメリカ軍は、ユダヤ人難民を無償で受け容れた神戸や敦賀を無差別爆撃し、ユダヤ人難民を新天地に旅立つまで暖かく保護した神戸や敦賀の市民は、生きたまま焼き殺された。
・日本の犯罪をドイツと同じように裁きたい連合国だから、東京裁判では上記の事実は意図的に完全に無視された。
・日本人の真心のユダヤ難民救済に心を寄せ、終戦まで数年間日本人と共に活動したハルビン・ユダヤ教団会長、ユダヤ民族基金、世界シオニスト機構などのユダヤ機関の極東代表であったアブラハム・カウフマンのアメリカのユダヤ組織へ発した救援要請の殆どは拒否され、戦後も日本人が戦中如何に、ユダヤ人を助けたかに就て、口をつむがざるを得なかった。
・日本の軍部は消滅してしまったからしょうがないが、外務省が何故、自省の先輩の人権保護の聖業を世界に発信しないのかは、真に奇怪な事である。
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本日の放射線空間線量。ソウルは0,134、東京は0,036。日本大使館発表

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在韓日本大使館のサイトに毎日掲載(河野前外相グッジョブ!)されている日本とソウルの放射線空間線量です。
あれれ、ソウルの方が福島市より放射線量が多い!
ソウルの観測点を見たら0,162の所もある。東京(0,036)の何倍だよ!

能の「鉢の木」こそが藝術 心の無い製作行為は藝術ではない!

能の「鉢の木」こそが藝術。
 能 鉢の木2
能 鉢の木1
「鉢の木」は人の心の原点を映す話で、同時代の世界で傑出し日本の誇る偉大な芸術家である観阿弥・世阿弥の作ともされています。
藝術の表現方法は、絶対に自由で多様であるべきですが、創作の動機、目的には善の「心」が「絶対」に必要で、それが「藝術の創作」と「単なる製作行為」を分けるのです。
今の日本には虚栄心と差別意識、無知の白人崇拝にまみれ、無慈悲で卑怯な自分を偽善の衣で隠すエセ芸術家が多すぎます。

以下、大要です。

ある大雪の夕暮れ、佐野(北関東)の外れのあばら家に、旅の僧が一夜の宿を求めましたが、住人の貧乏武士は、ボロ屋で食べ物もないと断りました。しかし、妻に思いやりの無さをなじられてハッと我に返り、雪道の中、僧を追いかけ家に招き入れました。
そして、なけなしの粟(アワ)飯を出し、自分は佐野源左衛門常世といい、以前は多くの所領があったが一族に横領され、落ちぶれたと語りました。
薪がなくなると、客人の暖のため悩み、落ちぶれても最後まで残し大事にしてきた松、梅・桜のみごとな盆栽がある事に気づき取り出すと、とても惜しみながらも、自慢の品だが、今となっては無用といいい、折って薪にしてしまいました。
そして、今は何もないが、ぼろでも鎧と錆びたなぎなた、やせた馬だけはあり、一旦鎌倉から召集されれば、いち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦う決意を僧に語りました。
年があけ春になり、突然鎌倉から緊急召集の触れが出た。佐野源左衛門も古鎧を身につけ、錆び薙刀を背負い、痩せ馬に乗って、やっとの思いで鎌倉に駆け付けました。
北条時頼は諸将の前で、ぼろ鎧を付け,錆薙刀を持ち、やせ馬に乗った武士がいるはずだとして探すよう命じました。
佐野源左衛門常世は何か自分に落ち度あり罰を受けるに違いないと恐れながら、御前の諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏しました。
すると北条時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土)を新たに恩賞として与えました。佐野源左衛門常世は感謝して引きさがり、はればれと佐野荘へと帰っていきました。

以上です。

「自分の利を捨て人を助ける憐みの真心」「主君(仕事)に尽くす心」「人と人が信じ合う無垢の心」という日本人の良さがこの話には詰まっているのです。
「心」が無くて何の「藝」ですか!何の「藝術」ですか!
素晴らしい心とそれを表現する素晴らしい技術が、妙合して初めて「藝術」なのです。

4月3日に熱海の興亜観音で書画奉納を行います。

私は4月3日(火)13:00~、熱海の「興亜観音」で書画奉納をさせていただきます。
「興亜観音」は、特別な霊山です。
 それは、旧陸軍きってのアジア共生主義者の中国通、人格者として人望の厚かった松井石根大将が、図らずも上海方面の総司令官となり南京を攻略し退役した後、日中両国の戦死した兵士の成仏を祈願するために中国の土を用い観音像を焼成し熱海に安置、戦後戦犯として拘留されるまで毎日登山して読経・祈願をし、以後現在に至るまで伊丹師親子により70年間絶やさず真心の法灯がつながれてきたからです。
 更に、東京裁判後に殉国七士の遺骨が秘密りに納められとことがその意味を確たるものとしました。
 私は、そこへお参りするようになってまだ日は浅いですが、自身の生き方が良い方へ大きく変わる霊験を実感しています。
 今回の奉納ではなくても、是非多くの方に興亜観音にお参りしていただき、その霊力を実感していただけますことをお祈りします。

興亜観音へのアクセスは以下の通りです。

所在地:静岡県熱海市伊豆山1136  電話:0557‐80‐0738
【列車で熱海駅へお越しの方】
① 伊豆山行きバス(のりば⑨20~30分毎)で 終点伊豆山下車、徒歩登坂20分。  
② タクシー(料金約1200円)で中腹の山門前下車、徒歩登坂10分。
【お車でお越しの方】
中腹の駐車スペースは5台のみですので事前に電話0557‐80‐0738でご確認下さい。
又は熱海駅前の駐車場をご利用され駅からバスまたはタクシーをご利用ください。

【興亜観音に関しては以下をご覧ください】
興亜観音ホームページ http://www.koakannon.org/
ウイキぺデイア興亜観音 https://ja.wikipedia.org/wiki/
興亜観音興亜観音揮毫チラシ

NHKは占領軍の奴隷となって日本人洗脳の走狗となったことを謝罪すべき!


『真相はかうだ』という世界的に見ても最もおぞましい部類に入る番組がNHKラジオ第1と第2(当時の日本国民皆が聞いたと同義)の同時放送で昭和20年12月から再放送を含めほぼ毎日のように放送された。
 脚本作成は占領軍民間情報教育局ラジオ課の米国人たちで、ドキュメンタリーを装ったドラマ仕立ての日本人洗脳番組であった。その目的は「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に対する罪、現在及び将来の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」であった。 
 作者が隠されていたため、嘘ばかりの内容に驚いた国民による抗議の手紙・電話がNHKへ殺到した。
 狡猾な占領軍は、抗議や非難などを取り入れてより効果的に日本人を洗脳できる『眞相箱』『質問箱』という番組に変え昭和23年まで放送した。
 当時の占領下のNHKの職員は反対すれば辞職するしかなく生活のため仕方なくではあるが、GHQが堂々と洗脳と標榜する放送を行ったのは日本人に対する敵対的犯罪行為であった。 
 その犯罪行為を正当化するためか、NHKは今でも、朝ドラの主演者に戦時中の愛国を反省させたり、天皇陛下を戦争責任で裁くような放送を続けている。
 それらは一見、客観的な視点による利他の善行を装っているが、本質はNHKの保身を目的とした独善で利己的なプロパガンダである。 

 NHKは何よりもまず先に「『真相はこうだ』を作らされた真相はこうだ!」という番組を制作し放送すべきである。そして過去現在未来の全ての日本人に謝罪するべきである。

 それができなければ、NHKは解体し別な新しい組織としてすべきである
 
 今その台本『真相はかうだ』(聯合國最高司令部民間情報教育局編)は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーでネット上で公開されている。→











国立国会図書館デジタルコレクション - 真相はかうだ. 第1輯

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プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

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