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 『松井石根大将の陣中日誌』精読1 大将の支那事変での目標は、中国において「欧米ソ連の影響を受けない支那人による支那のための反蒋政府樹立」「反日・排日の根源である共産勢力の排除」することだった

ありもしない南京大虐殺の責任により、アメリカの不法な報復である東京裁判で死刑となった松井石根大将の汚名を晴らすことは、我々後に続く日本人の責務だと思います。
 『松井石根大将の陣中日誌』を精読すると、大将が支那事変での目標としていたのが、中国において「欧米ソ連の影響を受けない支那人による支那のための反蒋政府樹立」「反日・排日の根源である共産勢力の排除」することであり、欧米の在支那大使、将官、新聞記者に対して懇切丁寧にそのことを説明し理解も得ていたことが分かります。
 ※注目すべきことは、南京占領後一カ月過ぎた上海で何度も欧米の将官、ジャーナリストと会談を繰り返しているのに、当時の南京の状況の情報に詳しいはずの彼等から「南京虐殺」に関する抗議どころか質問すらなく、概ね松井大将の意向が好意的に受け入れられていることです。
 日記では上海占領完了後すぐに以下のように記します。 
●「11月21日:此日予は原田少将をして共同租界及仏国租界当局に対し、右の要旨の要求をなさしむ。1.軍は租界当局が租界内に於ける排日、抗日及共産主義の諸策動に対し充分なる取り締まりを行ふ事を要求す。」
 
 また、南京占領後一週間弱で上海に帰り、欧米の在支将官、新聞記者と会談を重ねたことが以下のように記されています。
●「12月23日:2週間ぶりに帰来す。上海情勢漸次平静に向ひつつあるも、南市の処分未だ終らず、滬西(こせい)方面にある外国人の居住も一応は許可せるも、支那人の出入り自由ならざる為め実行意の如くならず。
 其後の謀略に付原田少将、楠本大佐を招致して状況を聞く。是亦多少共進展の模様にて、上海在住実業家を網羅する和平、救民運動は漸く其緒に就かんとしつつあるも、今だ十分の纏りを見ず、一層の努力を要するものと思はる。
 思ふに先日来のパネー号事件、蕪湖事件等英米の抗議に対する東西の衝撃が兎に角に上海支那人中にも鋭敏に影響するものあら乎。
 此日南京占領後の我方の態度方針を説明する為め外人記者団と会見す。最初南京占領と其国際的影響を知るため紐育タイムズのアベンド、倫敦タイムズのフレーザーを招致し、然る後上海の各国通信員と会見す。質問は主として、首都陥落後の日本の方針及パネー号に対する善後処置なり。
 杭州占領(欄外)
 第10軍は此日杭州を占領す。最早何程の抵抗もなく、第114、第101師団により易く占領せられたるは欣ぶべし。尚残留外国人及権益に関して問題もなく無事なりしは幸なり。今後風紀問題等に故障なからんことを只管(ひたすら)祈るのみ。
 銭塘江対岸に対する作戦は今後の情勢に依り決することとし、暫く粛山、餘杭附近を消極的に占領せしむるに止む。
12月24日:米長官訪問(欄外)
 朝11時、米国海軍長官ヤーネル提督を訪問す。蓋し曩に(さきに)英仏等の長官には面接の機会ありたるも、米長官には未だ其機を得ず。偶々パネー号事件もあり、一応訪問し置くを里とすると認めたるに依る。
 米長官以下能く接待し、態度可なり。上海問題に関して豫て(かねて)の注文を出したるも大体能く我軍の態度に信頼を置くものの如し、パネー号事件に関しては予より遺憾の意を述べ、又犠牲兵に対し弔辞を述べたるに誠意能く之を容れたり。
 要するに米海軍は我等に対し以何等毫も感情的悪感なきものと認めたり。尚彼は特に予に写真を贈りたり。
 帰途大使館を訪ひ、大使、総領事等に会ひ上海方面一般の情勢を聞く。別に大したことなきに依り、近々上海附近を一般外人、支那人に開放すべき事を申合す。尚税関問題等に就いては、現下の英・米抗議問題片付きたる後、更に強硬に我の最初の主張を貫徹すること利なりと考へ、右様申入置きたり。
12月25日: 米長官来訪(欄外)
朝米国ヤーネル提督以下多数幕僚、マリン司令官等を伴ひ答礼に来たる。予も誠意之を遇し、日米両国の太平洋の平和に協力すべきことを述べ、尚上海将来の治安維持につきては列国の協力を必要とすることを語りたるに、彼もまた之に賛成し、尚仏国租界間に於ける排日分子の取り締まりに付ては、先任司令官の立場を以て彼より佛国側に所要の序言ありたき旨述べた事に、彼は直ちにこれを承認せり。
此(れ)にて此日は毫もパネー号事件其他時局問題に直接觸るる事なく、頗る晴蕩(せいとう)の気分にて引揚げたり。
佛国海軍の招待(欄外)
 午後仏国旗艦ピッチャー号上に於ける仏提督の午餐会に出席す。仏国大使館始め例のジャキノウ牧師等迠(迄)多数列席し頗る晴蕩たる気分の会食なり。如才なき仏提督能く談じ切に親和の情に務む。予も之に応じて応酬し、大使、総領事に対し成るべく速に且つ完全に仏租界内の排日分子の清掃を要求せるに、彼等は努めて之に当たるべきも、何分避難民の数多く、其取締に困却しある旨を述べたり。彼等亦相応誠意なきに非ざるも仏国■と事なれば、到底其完全を望むべからざるは勿論なり。聞く同提督は26日出発、海防(ハイホン)に向ふ由。」
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戦後インドネシア独立のために戦い死刑となった、興亜専門学校学徒出陣の花機関員の遺書

 私の父は戦時中、インドネシアの独立支援を行う海軍特務機関、花機関員として興亜専門学校(現亜細亜大)から学徒出陣した。
 責任者で興亜専門学校で講演し学生の志願をも収した吉住留五郎は戦後、独立軍一個師団を率いオランダ軍と戦ったが1948年、東ジャワの山中で戦病死した。
 父の同級生の何人かはインドネシアに残り独立戦争に参加したが、オランダ軍に捕えられ不当な裁判で有罪、処刑された。
以下に遺書と辞世の句を載せる。
吉住留五郎
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金井清機関員・遺書
私の一生
 私は大正14年1月1日懐かしの故郷に生る。爾後御両親を始め御薫陶を受け19才に達す。
 日本人に生れ殉皇の心情切実のものあり。愛国心に燃へ勇躍南洋に向ふ。以後一死奉公の道を尽す。
 ああ然し理想半ばにして十五日の大詔に接す。感極り何ら言ふ所なし。国敗れて愛国の情益々深し。
 同志畑田、池田兄等と語らひ亜細亜民族の一員たる新興印度ネシヤ国家の独立運動に挺身すべき事に決す。ああ然し其壮図も空しく敗れ現在に至る。
 昭和22年3月28日空に一点の雲なき日本晴の朝、異国人に囲まれて軍事法廷にて休戦条約違反敵対行為により死刑の宣告を受く。
 自分の信念に基き行動したる事に依り死刑なりとも何ら悔ゆる事なし。むしろ信念通り行動し得た喜びを心の内に感じ非常に愉快なり。たとへ此の身は南溟の白露と散ずるとも、魂は永遠不変に貫き生きる事を確信す。
 神が私に対し授けて下さった使命を全うし得た喜びを感じ、従容として死に赴く事が出来るのであります。
 御両親様始め皆々様よ。たとへこの身はセレベスの土と化せんとも短き二十三才の一生を顧みて非常に幸福なり。私は其幸福感に包まれて祖国の弥栄と皆々様の御幸福を祈りつつ暁の白露と散ず。これぞ大和男子の本懐なり。
  国敗れて山河荒れ 海はあせなん世なりとも
      君に尽さん其の心 これぞ誠の大和魂
昭和22年6月17日
 明後日午前7時死刑執行の通報に接す。かねて覚悟の上にて心身の動揺さらになし。むしろ残る一日を如何に有意義に送るかを考へる。いよいよ日本男児として最後の御奉公の機来れり。立派に成就せん事を心に誓ふ。 以上
謹啓
 大変長期に亙り御心配をお掛け致しましたが今日6月19日午前7時30分日本人として堂々と散って行きます。
 祖国の弥栄を祈り君が世を奉唱しつつ暁の白露と散りて行く私の姿を御想像下さい。
 心身に一点の雑念なし。心に身の潔白を堅持し、短き二十三才の一生に於て神が私に授けて下さった使命を全うし得た喜びを心に感ず。
 祖国の再建と御両親を始め皆々様の御多幸を祈りつつ南溟の白露と散ることの出来る私は実に幸福且本望であります。
 最後に私は日本男子として死に赴く事を誓ふ。 敬具
  死して尚 君に尽さむ益良男の
       心は祈る 国の弥栄(いやさか)

スカルノ大統領が建立した日本人のインドネシア独立英雄の石碑

 1945年8月16日、インドネシア独立宣言の前日、宣言起草に参加したのは、スカルノ、ハッタ、スバルジョと日本人の前田精、西嶋重忠と花機関責任者の吉住留五郎であった。
 東京港区の青松寺に1958年日本との平和条約締結を記念しスカルノ大統領が、独立に尽力した二人の日本人を顕彰し建立した記念碑がある。
以下碑文邦訳
 市来龍夫君と吉住留五郎君へ
 独立は一民族 のものならず全人類のものなり
  1958年8月15日    東京にて スカルノasia-in06.jpg
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亜細亜主義者、松井石根大将の退役後のアジア諸国独立への努力

松井石根大将は南京占領後退役すると大亜細亜協会会長としてアジア民族独立への支援を全国で呼びかけていたが、大東亜戦争が勃発すると、アジア民族独立・解放の戦でなければなぬと考え、大日本興亜同盟が改組した大政翼賛会興亜総本部の総裁に就任し、ヴェトナム、フィリピン、インドネシア、インド、ビルマの独立運動を強力に支援した。
以下
●フィリピンは大亜細亜協会を創立し、ベニグノ・ラモスのサクダリスタ党の独立運動を大亜細亜協会の犬塚惟重海軍大佐を通じて協力に支援し、リカルデ将軍も支援した。
●インドネシアは旧知のスカルノ、ハッタ両氏を支援した。
●ビルマは、アウンサンらタキン党の30人組を支援する「南機関」と連携し、軍や政府に独立許容促進を運動した。
●インドは、大亜細亜協会メンバーのラシュ・ビハリ・ボースが、A・M・ナイル、サハイ、パンディらをひきいてバンコクに進出し「自由インド独立仮政府」を組織して活動している。
●ベトナム独立では、皇太子彊柢(コンディ)侯が陳福安、黄南雄を本国から招き東京世田谷に独立軍士官学校をつくるのを強力に支援し、学生寮を「如月寮」と名づけ、配下の常岡滝雄少佐、荒津寿らに本格的軍事訓練をさせた。また、近衛文麿や荒木貞夫を伴い訪れては激励した。
 『松井石根の陣中日誌』田中正明編(芙蓉書房)1985年P298より 溝口が抄写。d341475e45a7b7d823cb64fdfce6538f.jpg
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昭和9年に憲兵隊が入手した「陸軍派閥一覧表」再制作してみたら興味深い事が分かった。

昭和9年に憲兵隊が入手した「陸軍派閥一覧表」が当時の派閥理解に役立つので再制作してみた。
昭和9年と言えば2.26事件の2年前、支那事変勃発の3年前で、私の研究主題の松井大将の退役1年前である。
憲兵隊にとり陸軍の派閥を把握する事は非常に重要なの信憑性も高いので、以下に気がついた事を列挙する。
●皇道派、統制派、少壮急進改革派、清軍派が四大派閥とされている。
●清軍派の代表が松井石根大将とされている。
●清軍派のみが「国体原理思想」「国家社会主義思想」論戦に参加していない。
●皇道派は統制・清軍両派共に排撃する。
●統制派は皇道派を排撃するが清軍派は警戒するのみ。
●清軍派は皇道派を排撃するが統制派は監視するのみ。
●軍縮を断行したので陸軍で人気のない宇垣派の一部が清軍派に合流。※2年後松井大将は宇垣政権実現に奔走。
●少壮急進改革派では清軍派支持も多く、皇道派を支持するものもいた。
●少壮急進改革派で国家社会主義でなく国体原理を支持する者が増加している。
●海軍上層部では過半数が国体原理を支持しているが、表面上少数だが国家社会主義を支持する者が増加している。
以上、当時の陸軍の派閥の基本を理解することで、個々の軍人の行動の背景を考察する助けとなる。


陸軍派閥一覧表
プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

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