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朝鮮半島の先住民は縄文人

現代日本語(沖縄方言を含む)の祖語は縄文語(の主流語)と考えられます。
 氷河期時代が終わり海面が上昇し東シナ海・黄海・渤海が海中に沈み所謂朝鮮半島が出来た当時、そこに最初に住んでいたのは日本列島と同じ縄文人で縄文人でした。
 続いて山東半島、淮河・揚子江下流部・渤海湾西岸、東北平原、沿海州などから様々な民族が東遷、南遷をくり返したので、縄文人を半島南端に追いやられましたが紀元前後ころには倭人(縄文人の裔、所謂弥生人)として厳然として勢力をもっていました。
 中国の史書に半島南部の倭人の記載があることや、新羅建国時の三系統の王の一つが倭人で、記紀の任那記事、好太王碑文、縄文弥生土器出土、前方後円墳、古代半島の地名人名、他様々が半島南部が倭人(縄文人の裔、所謂弥生人)の勢力下にあったことの証明が、ありすぎるほどあるので間違いがありません。
 そして、4世紀前半に漢民族の朝鮮半島支配が終了すると同時に、それまで漢人帝国に遠慮していた半島の南北の二大勢力が高句麗と倭(大和)が、半島の主導権をかけて新羅・百済などを属国として従えながら激しく戦ったのは上記の経緯の延長線上にある当然のことであったのです。
 その間小国新羅は、大国の高句麗、日本(倭=大和)の間をずる賢く立ち回り国力を増強し続け、7世紀に全ての民族を裏切り、唐と結び高句麗、百済を滅ぼし、日本の勢力を半島から完全に駆逐したのです。
 ですから、今では半島の縄文人は完全に征服・排除されたので現在の朝鮮人の男系Y染色体に縄文系はほぼ無いが、母系ミトコンドリアには縄文系が多く残り、朝鮮語に日本語に似たところがあるのも当然なのです。
 従って、沖縄に朝鮮人が来るのは、侵略し最終的に沖縄人(=日本人)を沖縄から駆逐する流れなのです。
 それは彼等の遺伝子レベルの方向性なので彼等にとりごく自然なのです。
 同じく中国人が沖縄に来るのも、沖縄人絶滅、民族浄化の遠望を、彼らが意識するしないに関わらず持っています。ですから彼らは今でさえ「【沖縄】など存在しない。【琉球】があるだけだ!」などと平気で言うのです。
https://www.youtube.com/watch?v=G8MJn2B6nyU
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最後の武士、聖将松井石根が幼少期に受けた武家の薫陶

評伝 松井石根大将 その   溝口墨道 
最後の武士、聖将松井石根が幼少期に受けた武家の薫陶
【巣鴨拘置所で松井石根大将と同室の大川周明の言葉】
松井石根大将が、正に「聖将」と感じさせるような高潔な人格を持っていたことは、下記のような厳格な人物評を行う者たちの絶賛からも疑うことができない時事である。
大川周明は巣鴨で同室であった松井大将を評して「銭湯に入る人は、他人の前に肉体をさらさねばならぬ。同様に監獄に入る人は、晩かれ早かれ、心の衣装を脱がせられる。一緒に獄中で起臥することは、恐らく人間の真実を知る最上の機会である。私は獄中で初めて将軍の精神をその赤裸々の姿に於いてみた。語黙動静、坐臥進退、凡そ将軍のように微塵も衒気なく、而も挙措自ら節度に叶って居る人は、絶無でなくとも希有である。「何を以て君子と知るや、交情また淡の如とし」私はこの淡如という形容詞は、将軍のために出来た言葉のように思った。私はかような風格の将軍と日夜起臥を偕にする欣びを、獄中で満喫しようとは夢にも思はなかった。」と記した。(『安楽の門』大川周明著P⒖)
「大川周明も松井大将にならって、毎朝毎夕「観音経」を読誦している間に「ある夜、豁然と法悦の境地に入ることができた。私は初めて、雲霧をひらいて青天に白日を仰ぐが如く、観音の光明を得た」と書いている。」(『松井石根の陣中日誌』田中正明編)
「監房の壁に観世音菩薩の御影をかかげ、朝7時、夕7時、毎日その前に合掌礼拝し、終わって『般若心経』と『観音経』を読誦するのを日課とした。約三年間及入獄中一日としてこの観経は欠かすことはなかった。その信心篤い松井の影響が、いかに同囚の人びと、ことに東條元首相、重光元外相、大川周明博士らにおよんだかについては、拙著『“南京虐殺”の虚構』の中でくわしく述べている。」(『松井石根の陣中日誌』田中正明編P31)
「徳富蘇峰は富士山麓山中湖畔の別荘で、松井と相隣して住んでいた。その蘇峰が昭和の武将を評したなかで、松井石根と今村均の両大将を“昭和の聖将なり”とたたえている。……。二人に共通するものは、名利・英達を求めず、世の毀誉褒貶に左右されず、常に正道を踏んで、いつも高次元の目標を設定し、無私の精神で奉仕するという、宗教的、精神的な一生を貫いたことである。」(『松井石根の陣中日誌』田中正明編P32)
以上で如何に松井石根大将の傍にいた者がその人格に感動したかが、分かるだろう。私は松井石根の人生を語るには先ず、その淵源を知る必要を感じ、この一文を記すこととした。
【最後の武士 松井石根】
松井石根大将は東京裁判で南京大虐殺指揮者の無実の罪で昭和23年に処刑される数か月前、獄中で古稀を迎え漢詩を詠んだ。
詩は生れてから監獄での古稀までを簡略に列記しているが、冒頭に「明治戊寅の夏 尾州牧野に生る 清和源氏の裔 幼にして凌雲の気有り 十六陸軍に入り  廿歳少尉に任ず 累升大将を受け 勲位寵恩全し」と記し、最後まで自分は尾張の武家に生れたことを誇りにしていることを明らかにしている。そこで松井石根大将が受けた幼少期の武家としての薫陶を考察する。
 何故、松井石根大将が最後の武士かというかは、この一文を最後までご覧いただき、法廷での闘い、処刑での態度等を合わせて考えていただければご納得いただけるものと確信している。
松井大将漢詩 獄中古希を迎う

【名門武家松井家の家系】 
松井家の祖は清和源氏で、源為義の第十六子が保元平治の乱を避け備中松井庄へ隠れて松井を名乗り、平家滅亡後に鎌倉幕府に仕え備中二郡を代々領したことに始まる。戦国時代、駿河国・遠江国の大名今川氏に早くから仕えた遠江松井氏(信薫や宗信に代表される)は代々遠州二俣城に居城したが、今川義元の侍大将松井五郎宗信は桶狭間の戦いで義元の旗本として織田信長軍の急襲に対し奮戦し首級五十余をあげたが、義元とともに討ち死にしたので遠江松井氏は没落した。その後徳川家康に召し出され、松井氏は関ケ原の戦い、大阪の陣等に手柄を立て重く用いられ、家康の子で尾張藩の祖の直公に仕えてからは徳川御三家筆頭の尾張藩の名家として奉行等を務めながら幕末まで仕えた。
また別の系統の松井氏に、康親弟の松井光次の系統で家康麾下の牧野康成に付属され、のち越後長岡藩家老家となった流や、早くから徳川家康に付き幕末まで譜代大名として栄え維新を川越藩主として迎えた三河松井氏がある。
 以上でわかるように松井石根大将の家系は徳川家に仕えた名門武家であった。
【大きな父母の薫陶の影響】
「父」
父の武兵衛武圀は典型的な、優秀な江戸武士の素養を備えながらも維新後、時代に合わせられず困窮した硬骨漢であった。
尾張藩中で文武に秀で、立派な識見をも持っていたので、藩中では常に重きをなした。特に文は詩、書、画に長じ、同じ徳川御三家だが家風の違う水戸学を尊崇し、幕末の志士に多大に影響を与えた藤田東湖に私淑したほど直情傾向があった。武は柳生道場にて練磨したが天性と相まり、一頭地を抜き尾張藩中屈指の青年剣豪と呼ばれた。また武圀の「圀」は徳川光圀から採ったとも考えられている。廃藩後、藩から勧められた陸軍少尉任官を断り県庁に勤めたが武人的、純情かつ激しい気性により上司にへつらわなかったので、郡役所や赤十字社等の職を転々とした。
「母」
母の久子は、尾張藩御納戸役の名家正木家の長女のお嬢様育ちであったが日本女性の通すべき道を心得、実践した賢婦人であった。十二人の子の母として一人一人を国の要に立てるため力を尽くした。苦しい家計で子供たちに淋しい思いをさせないよう、いつも明るく朗らかに生活し、わざわざ二抱えもある大きな金吾甕を買い、珍しい金魚を飼ったり、大人の背丈よりも高い大凧を作って与えたり、大きな四手網を持たせたり、常に近所の子供たちより優越を感じるようにつとめた。石根をはじめ子供たちが皆のびのびとして明朗でひがみもなく育ったのは母久子の力であった。

【幼少期の石根が受けた江戸時代武士の基礎教養と松井家の武家教育】
「父母の語る英雄譚・人生訓」
父武圀は少年石根に、尾張の生んだ古今の英雄について良く語り、特に尾張中村出の豊臣秀吉や加藤清正、三河出の徳川家康のことは殆ど毎晩の就寝前の語りとして、武勇談、機知談、刻苦談をした。
尾張藩の名門武家であった松井武圀は当然、武家の必須教養の四書五経を修めていたし、藤田東湖に私淑するほどであるから和漢の歴史書、例えば『左伝』や『戦国策』なども読破していたと予想できる。従って武圀が石根に語った豊臣秀吉、加藤清正、徳川家康の武勇談、機知談、刻苦談は単なる物語ではなく、それらの知識に裏付けされた分析・評価が含まれた本格的な武家の教育であったと推察できる。  
であるから、後年、松井石根が中国で孫文に接し暗に陽に中国革命を支援し汪兆銘。胡漢民、蒋介石、張群、何応欽、宋子文、季択一、戴天仇等の革命党人士、閻錫山、馮玉祥、李宋仁などの地方軍閥と交流したり、日支事変前に中国で蒋介石に直接会い説得をし事変時には欧米の駐在員に積極的に会い日本の立場を説明することができた行動力・交渉力の個人的素養の部分は、父武圀は幼少の石根に語った江戸武士の基礎素養としての中国の春秋戦国の群雄割拠時の政略・謀略譚を含む英雄譚、人生訓にあったと考えるべきであろう。
母久子は、よく男の子たちに絵本太閤記を読み聞かせ、「太閤様は貧乏なお百姓の子だが一生懸命勉強、努力して天下に号令する大英傑になられた。お前たちは松井という立派な武門に生まれたのだから太閤様よりもっと偉くならねばならない。それは無理としても太閤様を見習い日本一の偉い人になる覚悟をしっかりと持たなければならない」と常に付け加えた。そこには秀吉という身近な郷土の英雄を使い、「郷土愛=愛国」「身分よりも努力のほうが重要」「自分の家門に誇りを持つ=先祖を大事にする」ということを教え込んだ。母久子は、父武圀の教えた武勇談に愛情の魂を吹き込み、それが後年、松井石根が支那事変時にも現地の人民を愛護することに最大限努力し、孤児を引き取ったり、迷い犬を日本に連れて帰り自ら買ったりした優しさとなってあらわれたのであろう。
また後年興亜観音を建立し朝晩欠かさず読経したり、先祖の菩提寺にお参りしたり、神棚をかざり先祖、皇室を篤く祀るなど、神道、仏教への信仰心が特に篤かったのも父母の姿から受け継いだと考えるべきだろう。
「江戸時代武士の基礎教養」
四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)を中心とする「経書」が中心の漢籍で「経書」が歴史(和・漢)、詩文より遥かに重視された。6、7歳から四書五経を詠みはじめ、17歳くらいで素読の試験があり、旗本ではその試験に通らなければ家督を継ぐことが許されなかった。素読を終わった者で更に学問を深めたいものは、『左伝』や『戦国策』などを読み藩政改革、日本国策などについて討論し合い、主君上司へ献策をし謀臣となった。『左伝』は春秋時代、『戦国策』は戦国時代の中国で多くの国が分立し領土獲得のための侵略戦争が至るところで無数に発生する中での武力戦術、情報戦、外交戦、国力増強などについての各国の事績を記したもので、『戦国策』では概ね縦横家(説客)が活躍している。
「武芸 新陰流の正統・尾張柳生道場」
父武圀は家の一角の広い軒下を武芸練習場にして男の子たちに剣術の稽古をつけた。石根は最も武芸鍛錬を好み、柳生道場の名剣士であった父を負かしたく思い、自分が起ち上がれなくなるまで徹底して稽古を続けたので、武圀は「筋が良いぞ、この調子ならどんどん伸びるぞ」と激励し、「石根は一番見どころがある気がする。これから大成するよう導いてやろう」と母に密かに話した。
尾張藩中屈指の青年剣豪と呼ばれた父武圀が通った柳生道場は、柳生新陰流の本流の尾張柳生の道場に違いないから、松井石根は柳生新陰流武芸の正統を幼少期に習ったことになる。
柳生新陰流は江戸、尾張に分かれたが、尾張柳生家では、新陰流の道統は流祖信綱より二世宗厳、三世柳生利厳に伝わり尾張柳生家にあると主張している(柳生厳長『正傳新陰流』)。江戸柳生からは柳生三厳(柳生十兵衛)、尾張柳生から柳生厳包(柳生連也斎)など天才剣士を輩出した。
新陰流は柔術の体さばきなどをその術理に取り入れており、素手で相手の刀を取る「無刀取り」は柔術の技とも言えるから、石根少年と父との剣術の稽古も、現在の剣道のものとは少し違う、武士の武芸で古武術的なものであったかもしれない。
「文芸 武家の素養としての詩・書・画」
 先ず初めに明確にしておかなければならないことは、江戸後期から明治初期における文芸思潮の主流は、漢学の盛行だということである。
従って、父武圀の経歴に「特に文は詩、書、画に長じ」とあるのは明治初期においては典型的な教養人であるということを示している。
松井石根は最後の処刑の直前まで、人生の通過点で折に触れ、漢詩を詠み自分の思いを表現し、又求められたり自発的な様々な場で書の揮毫を行っている。これらは明らかに幼少の時に家庭で受け、見てもいた父の教養を最後まで保ち続けたというとである。
 また松井石根は、1939年61歳の時に「陸軍美術協会」が発足したときに会長に推され、副会長には藤島武二がなったが、それも普段からの美術愛好により美術界からも歓迎されたからに違いない。松井石根が建立した興亜観音には当時の著名画家の絵が多く奉納されていることからもそれが証明されている。
【少年石根の武士としての自覚】
「英雄である先祖に羞じない立派な人間になる」
父と母から聞かされ教え込まれた名門武家としての教えは石根少年の心の大きな柱となり揺るがぬ勇気を与えていた。
石根は親しい友達に「僕の家の先祖は源氏の大将だよ。あの有名な源為義の十四番目の男の子が初めて松井という姓を名乗ったそうだ。それは系図に書いてあるよ」と機会あるごとに語っていた。
石根は「僕も松井五郎宗信公のような強い大将になろう」と常に考えていた。
弟の七男と桶狭間の古戦場を見に行き、そこで主君の今川義元を守るために旗本として奮戦し戦死した先祖の松井兵部少輔宗信の墓前に陸軍大将になることを誓った。そしてそれは後年、見事に実現した。
「和して同ぜず」
故郷の関係者が存命中に聞き取った以下のエピソードから、少年期の石根が同級生をはるかに超える大志と教養、美学を父から与えられ血肉にしていたことが分かる。
少年時代の石根は黙々として無駄口は言わず悪い遊びの仲間に加わらず、暇さへあれば懐から書物を出して黙々と読み成績はいつもトップであったから、悪童から反感を持たれていた。
ある日、石根が独りで学校から帰るとき、数名の悪童が突然石根に飛びかかり倒して馬乗りになり散々殴った。石根が「君らは突然何をするか、卑怯だ。」と言うと悪童は「貴様は生意気だ。学問ができるので威張るのは怪しからん。勉強しないで我々と遊べばゆるしてやる」と言った。石根は「僕は一度も諸君に対し、威張ったことは無いつもりだ。それでも、根も葉もない言いがかりで僕をぶつなら気のすむまでぶて、僕は雲助やごまの灰と喧嘩するのは大嫌いだ!」と泣きもせず騒がず手向かいもしなかったので、悪童たちは恥じてコソコソと逃げ帰った。
帰宅した石根が父に話した後で「馬鹿を相手にするのは馬鹿ですからね」と結んだので父は「よく我慢した。それでよい。本当の武士、剣客はめったに抜かないものだ。国、君、親のための大喧嘩なら命を投げ出し戦わなければならないが、つまらぬ喧嘩はしない方が良い。これからもそのつもりでやれ。」と言い感心した。このことは石根の賢明さとともに何物にも屈しない忍耐と、見た目を気にしない素朴さと、人を許し容れる、大きく優しい心の表れでした。
この日の後は、悪童は「松井にはとてもかなわない。」と言って兜を脱ぎ石根の下に集まってきました。石根は彼らを易しく迎え入れ彼らと「追いやい」や「どしん馬」などの昔からの遊びで楽しく過ごした。というものである。
暴力も何も使わず、同級生が慕って集まってくるようにしたというのだから、既に後年に大将になる人格・指導力の片鱗があったということであろう。
その後も、近所の川で鮒、鯰、泥鰌を採って遊ぶときは他の子たちが笊や小網でジャブジャブやるのを尻目に父の作った大きな四手網で一度に何尾も採り羨ましがらせたように常に同級生のあこがれであった。

以上簡単だが、少年期の松井岩根の家庭環境が、後の「聖将松井岩根」作った事の一部を明らかにした。

今の中国が歴史上最低

中国社会は進歩するどころか退歩しており、今が歴史的に最低である。
日本人が中国人と言論戦する場合、大前提として、その概略を知っていれば言論戦は随分と優位に進む。
以下、概説する。
●二千五百年前の春秋戦国時代、黄河・揚子江流域では大小さまざま多様な国が栄え、自由な気風のもとで無数の思想団体・学塾が生まれ、自由に討論し、現実社会への貢献を競っていたし、一般市民・農民でも貴族に国家の大計を言い、家臣が主君に反対することもできた。
●ところが、秦始皇帝の征服統一により、法家・道家の他はほぼ滅び言論、結社、移動の自由が大きく制限され、上意下達が決まりとなり、続く漢代で孔子の教えと関係ない歴史記述を経典とした「儒教」が国家支配の道具として創作された以降、自由の思想創出の気風は完全に衰退した。
●次の魏晋末の異民族の大侵入により漢民族はほぼ滅亡し貴族と富裕層は揚子江地域へ南遷した。一方、無教養で哲学をもたない北方民族の支配下の中国北部では、むしろ思想的に白紙状態の自由となり、西域文化、仏教等が広まり生き生きとした文化が隆盛した。
●鮮卑貴族が建国した唐では、南朝の漢民族の文化・哲学と北朝の北方民族の元気で大胆な文化が融合し開放的な社会が花開いた。外国人の官僚も多く、「長恨歌」など帝室を風刺した作品も創作できた。
●宋朝になり唐より漢回帰が深まり、陰湿な党争、朱子学などの偏狭な哲学が起こり、遼の北京地域占領、女真の侵入による漢民族の二度目の大南遷により、狂信的な「滅私奉公」「忠君愛国」思想による領土奪還運動も主張された。
●モンゴルの征服により、魏晋末と北宋末の二度の異民族征服後も生き残っていた殷周秦漢以来の漢民族の精神文化は完全に滅んだ。そのモンゴル征服時代は、現在の中国社会でも直視、客観視の出来ない「盲点」になっている。
藝術作品等のスタイルの完全な変化からも、民族性の大変換、滅亡が明確に分かる。
●明はモンゴル人を北に追い払い、漢民族文化・精神の復古・回帰を目標に国家を建設したが、言語・衣服・建築などは復古できたが、精神はついに最後まで回帰する事は出来なかった。
明ではモンゴル、女真の粗暴さと漢民族の欲の深さ、陰湿、閉鎖の悪い所のみが際立ってしまい、言論の自由の全くない独裁体制下の軍国主義国家で宦官の横暴、党争に明け暮れる社会が最後まで続いた。
文化面でも北宋のレベルへは最後まで遥かに及ばなかった。結局自ら満州人を引きいれ崩壊した。
●引き入れられるようにして清朝を建国した満州人は漢民族と違い、公平、勇敢、自由の気風を持っていたので少数で大勢の漢民族を支配することに成功し、更にモンゴル、ウイグル、チベットの信頼も得て版図に加えることができた。
初期はロシアを撃退したほど活力があり強かった清朝であったが、末期には漢民族化し、前の漢民族王朝と同じ陋習を繰り返し衰退した。
●孫文らは「漢民族復古」「近代化・民主化」の二つが基本的なスローガンにより清朝を倒し革命をし、民衆や知識人は希望をもって様々な活動を開始した。ところが、それらの試みは、時代を経るごとに、良い面が減り悪い面のみが増幅し残るようになり現在に至っている。
・いわゆる封建時代、言論は完全統制下にあり、歴史は勝者の創作、文学も権力の称賛、宗教・哲学も国定が原則であった。
 しかし、封建地主→共産党幹部、儒教→共産主義、二十四史→社会主義史観に入れ変わっただけで言論・結社・信仰・政治思想の自由が得られたのではなく全く進歩していない。
 それどころか、明らかに漢代、唐代、宋代に比べて、退歩している。
中国共産党は天安門事件以降、上海閥を中心として、「共産主義・社会主義」を彼等の独裁支配体制延命のために、以前の「儒教」と同じように利用することを決心し、漢民族本来の、底なしの物質的欲望、陰湿陰険、果てしない党争を完全に取り戻し、道徳なき利益集団となってしまった。
共産党中央幹部の蓄財は数兆円に及び、有名女優、テレビ女子アナウンサーは彼等とベッドを共にしなければならず、全国又は地方の警察、司法、企業、政府の全てが彼等の法によらない封建的支配の道具であり、思想監獄の存在など、過去の漢民族の悪習が集大成され民衆が奴隷状態にされている。
●従って今が中国の最低であり、精神的な改革がなされない限り、これからさらに最低が更新されていくのみなのは明確である。
以上。

利他の大精神で、東京大空襲、原爆投下の日本人庶民大虐殺の非を説くべきである

母親から、東京大空襲の経験は少し聞いてきた。
 本当に恐るべき大虐殺で、若い男性が殆ど不在で、婦女子・老人が木の家に住む庶民居住区の下町に、焼殺し用の焼夷弾をばらまき1夜で10万人以上を殺したのは、広島、長崎への原爆の死者30万人と合わせて、人類史に残る卑劣な大犯罪だ。
 全ては白人優位・有色人種劣位思想のもとでの白人の西進によるアメリカ大陸征服、ハワイ征服、太平洋制覇の帰結としての日本人大虐殺であった。
 シャイアン、スー族など奴隷になる事を拒否し自由・独立を守るため白人に反抗した勇敢で善意に満ちた有色人種を大虐殺し、その精神を砕き、自虐させ民族を消滅させた悪行と全く同じことだ。
 彼らは、自己の欲望達成のための野蛮な虐殺犯罪を隠すため、逆に白人の頭をはぐ野蛮なインディアンという嘘を流布したのと全く同じく野蛮な日本人という嘘を広めてた。
 その白人たちの側に立ちアジア人を裏切ったのが中国だ。勿論中国にもアメリカにも特に庶民にはまともな人も多くいたがいかんせん無力であった。
 我々は、先人が白人の世界侵略に勇敢に立ち向かい、結果として大虐殺された事実を直視し、それを恨みつらみで訴え報復するのではなく、堂々たる、利他の大精神のもとに、受けた痛み、相手の非を述べ、相手の良心を引き出し、改心へと善導し、未来の世界の良化に貢献すべきである。
 それが、亡くなられた方々への供養になると、私は思う。
https://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20190310-567-OYT1T50134.html

玉川氏の発言には、ファシストや共産主義者特有の文化弾圧、言論封殺の匂いがして恐怖さえ感じる。

玉川氏の発言には、ファシストや共産主義者特有の文化弾圧、言論封殺の匂いがして恐怖さえ感じる。
「学生服とセーラー服は軍事由来だから問題だ」と言うが、「制服制度」「詰襟学生服」「軍事由来」が全部ごちゃまぜだ。
【詰襟が問題なら】
●「詰襟」が気に入らないだとすると、玉川氏の来ているスーツ自体が、左襟にボタン穴の名残があるように、胸元を開けた詰襟服の変型判に過ぎないから滑稽だ。
●先ず「詰襟」と「軍服」とは連関性はほぼない。 
寒冷な北方に住むユーラシア大陸東端のツングース、モンゴル人から欧州の白人に至るまでの人類は防寒の為に、石器時代から、詰襟、筒袖の毛皮や綿・麻の衣服を着ていた。
●例えばチーパオ(旗袍)は、今では中国女性の民族服とされていいるが、もともとは旗人(満洲・モンゴル人)の着る詰襟・筒袖の衣服と言う意味しかなかった。
漢民族は日本の着物・羽織袴と同じものを着ていたが北方民族に占領され強制的に切るようになっただけだ。
●ロシアや中央アジアの民族衣装も皆同系統の詰襟、筒袖である。
●近代以降、西欧先進国では詰襟服が、郵便局員、官僚、軍人、警察官、教員、生徒の制服として着用された。それが維新後の日本に西欧文化の一環として移入されただけである。
【セーラー服は当時の西欧の良家の子女の服】
●西欧の王家・貴族の子女でセイラ―服が流行したので、日本のお嬢様養成を目指した私立女子学校が相次いでセイラ―制服を採用した。
●今では、日本のセイラ―服文化が世界に、「可愛い文化」の象徴として広まっており、そこには軍国主義など影も形も存在していない。
【軍事起源が問題なら】
【ネクタイは軍事起源】
●クロアチアの兵士がフランスを訪れた際、首に巻いていたスカーフをフランス国王が気に入ったのが起源だという説が定説。
【その他にも軍事起源のもの】
ダブルブレザー、ピーコート、トレンチコート、缶詰、リュックサック、etc.etcできりがない。兵器でない文化用品を軍事由来だなどとするのは病的だと言わざるを得ない。
プロフィール

bokudoart

Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修

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